「十字架の上にある人生」(ガラテヤ2章19節b〜20節) ( 11.16/2014 ) |
「わたしはキリスト共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2章19節b〜20節、口語訳) 自分に与えられた人生を自分の力で負えないと感じることはないでしょうか。聖書は、主イエスがわたくしたちの罪を負い、わたくしたちが既に十字架の上にいると言ってくださっています。 主イエスはわたくしたちをとりなすために十字架にかかってくださいました。そして、ご自分の血を流してすべての人の贖いをなしてくださいましたから、わたくしたちに許される執り成しは、彼の執り成しの内にあるのではないでしょうか。すなわち、今許されているこの人生を、十字架の上でキリストと共に過ごした強盗のように、そして十字架の下で主イエスを見上げた群衆のように過ごせばよいのではないかと思うのです。そこでなされていることは、 1.聞き 聖書を読むこと、礼拝に出席して説教を聞くことなどをとおして主イエスの御声を聴きましょう。罪を感じるそのままの状態で、主イエスに近づきましょう。そして主の御声を聞き、何度でも彼の足跡をたどり、罪赦されるためになされた御業を見ましょう。立派な状態で神に近づける人はいないのですから、現状のそのままで神に近づきましょう。みことばを聞くと直るのです(マタイ8章8節)。 2.信じ 神に祈ることが救いへの道です。罪あるままで神の御前に出て、彼の十字架を見、彼の御声を聞いて、「わたしを信じるか」と語っていただけるまで、彼に苦しみを打ち明けて祈りましょう。救いは神のものですから、復活された主イエスに「主よ、信じます」とお答え出来るまで祈り続けようではありませんか。マルタは絶望の中でこの言葉を聞き、主イエスを信じて悲しみを花園に変えていただきました(ヨハネ11章参照)。 3.十字架上にキリストが生きる 十字架なんて怖くて近づけない、執り成しなんて怖いというのが正直に推し測る時に明らかになるわたくしたちの力量ではないでしょうか。しかし、使徒パウロも自分で自分の十字架(人生)を負ったとは言っておりません。彼は「キリスト共に十字架につけられた」と言いました。これから十字架に登るのではないのです。今あるこの生活が既に十字架に付けられている人生だと言いたかったのではないでしょうか。今の現実に十字架を見、主イエスの御顔を横に見たのではないでしょうか。彼は繰り返し主イエスの御声を聴き、彼を信じて救われ、罪だらけの自分が死んで、キリストに生きていただくことに同意したのではないでしょうか。 どんなにつらい時も、キリストが内に生きておられるということを否定する必要はありません。弱さを感じ苦しくても、もし今が十字架の上の人生であるとするなら、何度でも主イエスの御顔を求め、御声を聞き、祈り、自分のすべてのために彼を信じ、歩み直せるからです。彼に歩み直していただけるのです。十字架の上につけられている人生と受け止めてみてはいかがでしょうか。 |
|
|