「無限の祝福」(マタイ14章18節〜19節) ( 11.23/2014 )
「イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい』。そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」(18節〜19節)

「十字架につけられた」と告白した使徒パウロは、「キリストがわたしの内に生きておられる」と言いました。自分が死んでキリストが生きるという恵みが提示されているわけですけれども、同じ人物の人生について聖書の別な個所には「天上で霊のもろもろの祝福をもって祝福されている」人生だと説明しています(エペソ1章3節)。本日は十字架を祝福という側面から考えてみたいと思います。

1.新しい祝福(罪深さを知ること)
悔い改めるとは、古い生活習慣を脱ぎ捨てキリストを着ることであると聖書は教えています(コロサイ3章参照)。聖書の光はわたくしたちの罪に気づかせてくださいますので聖書を読むことは重いことかもしれません。けれども、必ず主イエスに出会えますので、聖書を机に置き、会社や学校にも持って出てみる、そういうことから取り組んでみてはいかがでしょうか。

2.自分をささげる祝福
神が与えて下さった人生ですが、それぞれに対して神が委ねて下さった人生は異なります。ゆえに、今あるままで神の御前に立つならば、それぞれ、どこかに弱さや愚かさも含まれているのではないでしょうか。しかしそれを祝福と受け止めることが出来る理由は、たとえそれが小さなささげものでも、主イエスは受けとめてくださるからです。

3.無限の祝福
主イエスの手にささげられた少年のお弁当(ヨハネ6章9節)は、主イエスの手によって多くの人の祝福に変えられました。わたくしたちの人生も、同様に、主イエスの御手によって無限の祝福に変えられるのではないでしょうか。

自分で自分の人生を変える力は無いかもしれません。しかし、主イエスの御手は十字架と思える事柄にも祝福を加えてくださるのではないでしょうか。着替えた姿とは、そのままをささげて主イエスに祝福を加えていただいた姿なのではないでしょうか(1ヨハネ1章7節)。主イエスの力と愛は無限です。

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