「そのとおりです」(マルコ7章24〜30節) ( 11.30/2014 )
「しかし、女は答えて言った。『主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。』」(新改訳、マルコ7章28節)

本日からアドヴェント(降誕節、ラテン語のアドヴェンテゥス「到来」から来ている語)です。イエス・キリストの降誕を待ち望む期間に入りました。神からお受けする恵みはマタイ5章45節には太陽や雨が挙げられていますが、この期間はクリスマスにイエス・キリストをお迎えするための準備期間です。本日は、人生を「そのとおりです」と受け取った信仰について学びたいと願っております。

1.イエスの前に願い出たフェニキアの女性の信仰

彼女には何の誇りもありませんでした。聞いてくれない宗教指導者への不満、神への不満、隣人への不満もここには記されておりません。既に不満を抱く時期を通り過ぎて、彼女の心には神が与えるものを受け止める準備が出来ていました。

2.蔑視という悲哀

この女性は、何と主イエスから差別され、自分の一番大切な子どもが小犬と呼ばれてしまいました。しかし、彼女の信仰は小さな者に注がれる神の愛への信仰でした(マタイ25章40節)。それゆえに、どんなにさげすまれても耐えることが出来ました。ここに、わたくしたちに対して発想の転換が迫られていると思うのです。それは、不幸が悪という信念から、不幸さえも神の愛の中にあるという思考への転換です。信仰や熱心さえも神の賜物(ガラテヤ3章14節)であるならば、ここで明示されている困難もまた神の賜物ということもまた肯定できるのではないでしょうか。

3.誰の責任でもなく、神からのもの

自分や家族や社会など、様々なものの責任を追及して傷つき、疲れ切ってしまうのが私共にありがちな姿ではないでしょうか。しかし、誰しも神の手から死、そして離別を受け取るときが来ます。その時には誰であっても自分のたましいを神の御手に(よろしくお願いします)と任せなければならないのです。

死の間際にではなく、現在の問題の為にも「主なる神よ、あなたにこの問題をお任せいたします。」と告白しようではありませんか。自分の問題と考える傲慢を悔い改めて、神から委ねられている問題であることを認め、神の御心を問い、「神に従いたい」と祈ろうではありませんか。そして数週間後のクリスマスの日には、主イエスを神からの救い主としてお受けしようではありませんか。罪あるままの姿を主イエスに任せようではありませんか。

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