「主イエスの臨在」(マタイ28章20節、ローマ1章16節) ( 12.7/2014 )
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
「わたしは福音を恥としない。」

アドヴェント第二週になりました。ヘロデ王とエルサレムの人々は主イエスの誕生の知らせを聞いても不安を抱きました(マタイ2章3節)。それは、自分ひとりで生きていたからではないでしょうか。本日は、わたくしたちの救い主、主イエスはいつも共に居て下さることを学びたいと思います。
主イエスの臨在(そこにおられるということ)は、

1.ひとりではないということ
今から息を引き取るその瞬間まで、どんなにひどい罪の波に飲まれてしまうときにも、そして死んだ後も、死から復活された主イエスが共にいて下さる救い主なのです。

2.恥ではない
目に見ることが出来ない主イエスの臨在を認めて生きることは、臨在は神以外には説明できないことですので、恥ずかしいことかもしれません。しかし、これは恥ではなく救いを得させる神の力なのです。

3.救い
怒りや恐れや失望など、救いとは程遠いと感じられる感情に支配されてしまうとき、救いが分からなくなってしまいます。しかし、共にいる、ということはわたくしたちの願望によって支えられているのではなく、主イエスの意志です。放蕩息子を父が迎えたように(ルカ15章20節)、です。ゆえに、わたくしたちが救われるということは、自分の力で現実を変えることではなく、現実の中に主イエスを認めることなのです。彼が良いと思われる時に解決されることを信じることができることが救いなのです。そして、彼の御業を認め感謝できること、これが救いなのです。

ユダヤ人にもギリシャ人にも、すべて信じる者の救いは、わたくしたちの力によるのではなく、主イエスの臨在、すなわち彼の生によるのではないでしょうか。そして、栄光も主イエスの生にあるのではないでしょうか。苦難も、主イエスによると、うけ止めることができたらと思うのです(2コリント4章8節)。


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