「卑しい者」(ルカ1章48節) ( 12.14/2014 ) |
「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」(ルカ1章48節、新改訳) この聖書の箇所はマリアの賛歌と言われる部分ですが、「卑しい者」は新約聖書に6回(マタイ18章4節、23章12節、使徒行伝8章33節、ピリピ3章21節、ヤコブ1章10節)しか使われていません。マリアの人生を卓越したものとしたのは、卑しさを知った信仰にあったのではないでしょうか。 1.お祈りの仕方 普通、お祈りする方は自分の正しさを神に申しあげるのだと思います。そしてそれは誰にでも出来ることです。しかし、自分の醜い感情が混じっている心の内を祈ることはなかなかできないことです。それが罪の本体であることを心のどこかで気づいているからです。ゆえに、もし、心を開いて醜いままの心を神に打ち明けるなら、主イエスは近づいてきてくださいます。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1章15節)。福音とは主イエスのみわざです。彼はわたくしたちの罪過の為に死に渡され、義とされるためによみがえっておられます(ローマ4章25節)。福音とは、主イエスの十字架のゆえに赦されるということです(ルカ23章34節)。 2.主イエスの契約 人間や偶像がわたくしたちの罪を受け止めることができないことは理解できるのではないでしょうか。しかし主イエスはわたくしたちのために十字架にかかって命を捨てて下さいました。「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイ26章28節)とあるとおりです。彼はわたくしたちの祈りを聞いて立ち去るのではなく、近づいて来てくださりご自身の命を捨てたことを示してくださるのです。 3.愛の傷 男の子を産むと告げられた時、マリアはあり得ないとそのままの思いを告白しました(ルカ1章34節)。すると、「いと高きものの力があなたをおおう」と御使いは告げたのです。事実、マリアの人生は剣で心を刺し貫かれるような苦しみを受けると告げられ(ルカ2章35節)、主イエスの十字架を見届けることとなります(ヨハネ19章25節)。普通、到底受け止めることができないことです。しかし、いと高き方は彼女の生涯を支えて下さいました。どこまで行っても、何年クリスチャンをしても自我以外出て来ないわたくしたちにも救われる道があります。ただ祈るとき、その罪の傷を、主イエスは彼の愛の傷に変えてくださるのです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、」(ローマ5章8節、新改訳)とあるとおりに。 卑しい者にまで、主イエスの愛は現れるのではないでしょうか。 |
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