「神に頼る教会」(コリント人への手紙第一12章3節) ( 1.2/2015 ) |
「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」(コリント人への手紙第一12章3節、新改訳) 1.主イエスに倣って 主イエスは父なる神の御心を行いました。それは、神に頼らなければできないことではないでしょうか。そして、その霊をわたくしたちに与えて下さいました。 「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」(ヨハネ6章38節、口語訳) 「しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」(ヨハネ8章26節、新改訳) 「そこでイエスは言われた、『あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。』」(ヨハネ8章28節、口語訳) 「イエスはもう一度、彼らに言われた。『平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。』そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。』」(ヨハネ20章21節〜23節、新改訳) 2.自分の為に 自分で自分を罪人と言うことはできても、他人から罪人呼ばわりされることには抵抗を感じるのではないでしょうか。 「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2章3節、新改訳) しかし、最初の弟子たちも、聖霊を受けるために罪を悔い改めることを勧めてくれています。罪人であることを認めることが聖霊を受けるために必要であり、神の憐れみにすがる以外に良いものが出て来ないことを認め告白するのが祈りの一つの目的ではないでしょうか。 3.隣人の為に どんなに心を注いでも、命を注いでも、人が主イエスに信頼できるようになるのは聖霊によると聖書は語っています。肩の力を抜いて、聖霊が促してくださることを一つでもさせていただけたときに心からの感謝をささげようではありませんか。わたくしたちも神に頼り、神が許される時に、結果も委ねながら御心を行わせて頂きましょう。神による救いの御業に頼りましょう。 |
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