「なぜ、十字架があるのか」(テトス2章1節〜3章7節) ( 1.25/2015 )
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(2章14節、新改訳)

なぜ、十字架があるのでしょうか。最近来てくださっている子どもたちには分からないことなのではないかと思うのです。

1.人間は完全ではないから
主イエスの十字架はわたくしたちの罪の贖い(「買い戻す」という意味)のためでした。ひとりひとりが違う存在でありますので、自分を押し付け合うことになり、ぶつかってしまいます。しかし、それは主イエスの十字架が必要な自分であることに気づかされるためなのではないでしょうか。

2.愛をもつため
3章2節に「優しい態度を示す」とあります。優しい態度、示せますか。先に申しあげましたが家族であってもぶつかるくらいわたくしたちは自己中心な存在です。主イエスの十字架を仰がなければ隣人を愛し受け入れることはできないのではないでしょうか。

3.聖霊の後に生きるため
テトスの手紙は、教会になぜあるのか分からない社会的立場の違いについて正面からその問題に触れている手紙です。まして、自分自身のことさえ、内に与えられた信仰の理由すら分かりません。ゆえに、神がおられ、神がわたくしたちの人生を、そして教会を導かれていることを認める必要があるのではないでしょうか。「神は私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いを持って私たちを救ってくださいました。」(3章5節、新改訳)。主イエスは当時の宗教指導者たちには理解されない存在でした。それは、律法に照らして善悪を判断したのではなく、聖霊の判断を重んじたからでした(マタイ12章1節〜35節)。わたくしたちも聖霊の後に生きることができたら幸いなのではないでしょうか。そのための、主イエスの十字架なのではないでしょうか。自分のしたいことをするのでしたら聖霊はいらないのです。しかし、それが十字架に至るので(マタイ12章40節)聖霊を受け入れる必要があるのではないでしょうか。

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