「十字架の範囲」(イザヤ53章1節〜12節) ( 2.1/2015 ) |
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53章4節、口語訳聖書) 主イエスの十字架が人類の罪のための贖いの供え物であったと聖書は証言していますが(注1)、しかし、重い荷を負ってこられた方々の中には素直に十字架による罪の赦しを受け入れられない方々がおられます。 1.苦しみだけでなく悲しみがあるから 自ら犯してしまった罪の結果としての苦しみのためには主イエスにすがることができると思います。しかし、隣人から受けた苦しみは悲しみとなっており、その悲しみを解決する術を持たないのがわたくしたちではないでしょうか。赦したいのにその気持ちを悲しみが邪魔してしまうのです。 2.天の国の範囲 マタイ13章44節〜50節には「天の国」のたとえという表題が付けられています。そこには畑に宝を見つけた人が持ち物を全部売り払って畑を買うとあり、また、高価な真珠を見つけた人が出かけて行って持ち物をすっかり売り払ってそれを買う、とあります。これは、その民という宝を購入するためにすべてを与えられた主イエスを指すという解釈と、また、別な解釈では救いを得るために全てを売り払う罪人の姿を表しているということです。どちらの話も全財産をかけるなど、ありえない話です。あり得ない表現を使うことで天の国の価値が強調されています。(但し、主イエスの十字架や殉教者たちを思います時に、その通りの価値を教えられます。)ただ、後半の47節から50節も読みますと、この譬えは今の時を指しており、悲しみが起こるこの一日には全財産と同じ価値があるというメッセージなのではないかと思うのです。悲しみも今ある天の国に含まれているということではないでしょうか。 3.悲しみを担われる主イエス イザヤ書53章4節には、われわれの「悲しみ」を担われた主イエスについての預言があります(マタイ8章17節参照)。新共同訳聖書と新改訳聖書では「痛み」と翻訳されています。主イエスがわたくしたちの悲しみ、または痛みを担って下さっています。もはや、わたくしたち自身が負う必要はありません。このことを信じようではありませんか。主イエスの十字架には全人類の悲しみも含まれているのです。彼に悲しみもお任せ致しましょう。 (注1)「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」(1ヨハネ2章1節〜2節)、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(1ヨハネ4章10節) |
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