「生きることがつらいかたへ」(ローマ3章9節〜31節) ( 2.8/2015 )
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3章24節 新改訳)

「生きることがつらいんです」というお電話をいただきました。隣人の罪を赦せないことがつらいという訴えでした。隣人の罪を赦せないので自分の罪の赦しを祈れないというのです(マタイ6章14節、ルカ11章4節)。

1.自分が罪人であることを自分のために認めること
「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3章20節 新改訳)これは、なかなか認めにくいことかもしれませんが、人は自分の力で義とされることはできないと言っているのです。ゆえに、義とされるために他に道があるはずです。

2.罪から神へ
罪があるから不幸なのではありません。罪が神のご要求を奪ったことが悲しみの原因です。では、なぜ、神のみ前から去ってしまったのでしょうか。それは、神のご要求を受け止めることができないと感じて逃げ出したくなるからです。しかし、逃げ出さざるを得ない罪人が神の御声を聴けないものでしょうか。

3.神はキリストを打った
神はわたくしたちの罪をキリストに負わせ、わたくしたちを彼の十字架の死によって神のみもとに買い戻してくださいました。すなわち、罪を取り除いてくださったのです。そして、「神の恵みにより」とは、人間の義は無いのだよということです。すなわち、人間の義がないことについて恥ずかしく思わなくても良いというのです。奉仕も愛も赦しも神の恵みなのです。人間の裁量でも努力の結果でもないのです。ゆえに、神の恵みだけで隣人を赦せる、その日が来ることを待ち望もうではありませんか。「神の恵みだけで十分です。神の恵みを注いでください。御声を聞かせてください。あなたの恵みをほめたたえる日を与えて下さい。」と祈ってみませんか。

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