「生きるため」(1テサロニケ5章1節〜28節) ( 2.22/2015 ) |
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(10節、新改訳) 神はわたくしたちに生きて欲しいと望んでいてくださいます。死んではいけないと言っておられるのです。更に、キリストとともに生きて欲しいと願っておられるというのです。キリストと共に生きるとは、 1.悔い改めて生きてほしい 信仰とは、信者の力や可能性ではありません。生きておられる主イエスの約束を信じることを意味しています。ただ難しいことは、キリストは罪人を赦すために十字架におかかりになられ、罪人を赦すことに決めておられるということです。すなわち、わたくしたちがこのことに同意できない場合、それは悔い改める事項に該当するということになります。主イエスはわたくしたちに(隣人を赦さずに生きてきたことを)悔い改めて生きて欲しいと願っておられます。 2.主イエスのくびきを負うて生きてほしい 主イエスはわたくしたちの罪のために十字架にかかられたお方です。このお方とくびきを共にする(マタイ11章29節)ということは、罪のための苦しみも共に負うことになります。ゆえに、すぐにくびきを外したくなるのです。しかし、信仰とは共にくびきを負ってくださっている主イエスを信じることを意味しています。自分にそのくびきを負う力が無かったとしても、主イエスの力を信じるのです(マタイ28章18節参照)。このことは許されています。福音に仕えるときに与えられた罪のゆるしに立てるのです。 3. 主イエスの力が自分にも及ぶことを信じて生きてほしい コロサイ1章27節には、キリスト教の奥義はキリストだと記されています。自分で自分の自我を砕くのではなく、わたくしたちの内に生きて下さっている主イエスがわたくしたちの自我を砕き、ご自分の住まわれる場所として下さり、キリストのように考え、赦し、愛せるように造り変えて下さるのです。 共に生きてくださっている主イエスを今日も信じましょう。キリストのからだなる教会において共に成長させていただきましょう。 「それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」(1コリント12章25節〜27節)ひとりが生きて下さることを望んでいる交わりが教会です。 |
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