「神、味方ならば」(ローマ8章18節〜39節) ( 3.8/2015 )
「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8章31節、新改訳)

東日本大震災から今週の11日で4年を迎えます。多くの命が奪われ、悲しみがまだ癒えていないのが現実です。神とはどのようなお方なのでしょうか。神の御前になす術のない無力感に襲われるのですが、数千年前から神を生きておられるお方として証している書物が聖書です。この聖書から、神の御思いを少しでも知ることが出来るのではないでしょうか。

1.恐れるな
聖書では神を生きておられるお方として紹介してくれています。創世記のノアの洪水の記事からも神の主権を知らされます。しかし、旧約聖書を通して証言されているユダヤ民族の歴史は、その神を忘れたかのように預言者の言葉を無視し続けています。しかし、新約聖書に入り、神が主イエスを救い主として遣わしてくださって以来、新しい光が与えられています。すなわち、ヘブル人への手紙9章14節には、「永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」と記されています。神は主イエスの十字架を信じることを通してわたくしたちの良心をきよめ、心から生ける神への怖れを取り除こうとしておられるのです。

2.裁きでなく恵み
ローマ8章31節の続きは「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。」(32節、33節、新改訳)ここに、すべての人に対する神の裁きは神の御子イエスに下った、誰も隣人を裁けないと説明しています。そして、新約聖書の主イエスの証言によりますと、神の裁きは主イエスが再び地上に来臨されるときに行われます(マタイ25章31節以降)。現在は、まだ離別の悲しみを解決できていないかもしれません。しかし、神がご準備くださっているのは恵みなのです。

3.味方に与えられた役割
ルカによる福音書15章20節には「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」と父なる神の愛が表されています。全てを赦し走り寄ってくださる神なのです。父を裏切った弟息子にさえ走り寄って接吻するお方が、災害で一方的に失われた命を軽く扱われるはずはないのではないでしょうか。ヘブル人への手紙7章25節には、「そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。」とあります。神が味方であるということは、放蕩息子を迎えるために宴会を準備したしもべたちの中に、先に召された愛する方々もおられるということではないでしょうか。主イエスは散らさない者は味方だと言ってくださっています。味方の役割は、主イエスの救いの力に同意するだけで良いのではないでしょうか(マタイ12章30節、ルカ11章23節)。苦しみがあっても主イエスはいつでもとりなし続ける(味方であり続ける)とおっしゃってくださっています(ローマ8章34節)。主イエスが守ってくださるのです(ローマ8章37節、ルカ7章48節)。

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