「日常生活が礼拝に」(ヨハネ4章7節〜26節) ( 3.15/2015 )
「イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。』」(21節、新改訳)

自分のすべてを知っておられるお方と出会って変えられた女性について、聖書に記されています。わたくしたちも、もし、自分のすべてを知ってくださっているお方がおられたら安心ではないでしょうか。

1.孤独が礼拝に変わる
主イエスはこの女性の過去を知っておられました(17節、18節)。すなわち、主イエスはわたくしたちが語らずともわたくしたちについての全てを知ってくださっています。井戸端で彼に出会うまでの彼女の生活は、孤独感を異性との関係を通して満たそうとしていたのかもしれません。しかし、この出会いを機に、彼女の孤独は終わりました。主イエスが知ってくださっていたからです。

2.罪が礼拝に変わる
主イエスは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)であると証しされています。罪を取り除くのは主イエスだったのです。わたくしたちの努力次第で罪が取り除かれるのではなかったのです。主イエスの犠牲によって罪は取り除かれるのです。弱さを感じるとき、自分の力に信頼することをやめて主イエスを受け取り、神を礼拝しましょう。

3.渇きが礼拝に変わる
メシアと呼ばれる主イエスを迎えず自力で生活するか、彼をお迎えするかは個々人に委ねられている課題です。(今、主イエスを私の心にお迎えしたいのですが)と、神に祈ってみてはいかがでしょうか(15節)。井戸から汲む生活が、渇かない生活に変えられると約束されています。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」(13節、14節、新改訳)。主イエスが与える水とは聖霊のことです(14節、23節、24節)。喪失感や苦しみの中で、主イエスが渇きをいやすと約束してくださっています(ヨハネ17章3節参照)。

彼は常にわたくしたちを知っておられ、彼が解決者となってくださいます。自分や隣人や物に求めなくてもよかったのです。バプテスマのヨハネも、サマリヤの女も(4章29節)、ただ「主イエスを見よ」と言いました。まず、日常生活の中で彼を見上げてみませんか。

TOP