「あがないのある生活」(マルコ10章32節〜45節) ( 3.22/2015 ) |
「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」(45節、口語訳) 主イエスの弟子たちは、イエスが御顔をエルサレムに向けその足をエルサレムに向かって進められた時、彼と一緒に栄光を受けたいと望みました。しかし、主イエスが求めておられたのは地上の国ではなく天の御国でした。 1.御国はどこにあるのか 主イエスがこの地上に来られた2000年ほど前から神の国は始まっています。しかし、主イエスに従えるようになるまで、彼の支配と平和はわたくしたちの心に完全には実現していません。更に、40節に目を留めていただきますと、「すわらせることは、わたしのすることではなく」とあります。また30節には「来るべき世」とありますので、父なる神の御国があり、真の目的地があることを教えています。目の前の争い事が目的地ではないのです。 2.今の世界において 主イエスは今の世界においてどのように歩むべきかも教えて下さいました。それは、支配者のようにではなくしもべのように生活しなさいと教えて下さっています。 3.あがないのある生活 自分の人生を隣人の贖いの為に用いることを主イエスは教えて下さいました。わがままとわがままがぶつかり合う生活でなく、隣人の罪を自分の罪のように感じ、自分の罪に苦しみ、自分を与える生活をするように勧めて下さっています。良い思想は結構なのですが、その力はどこから来るのでしょうか。神の国は捨てたものに依るのでもなく(28節)、富に依るのでもなく(22節)、15節にはおさなごのように受け入れるものであると言われています。おさなごは無力で泪します。贖いの代価を払わされる立場に立たされている存在です。主イエスはおさなごのような姿を受け入れることを教えて下さっているのではないでしょうか。「多くの人のあがないのとして自分の命を与えるためである」とは、隣人の罪を受け入れ、自分の罪をも認めることができますか、と問われているのではないでしょうか。おさなごは何かができるわけではありません。ただ受け取るだけです。今与えられているものを受け取り翻弄されながら、主イエスの近くで天の御国を目指して過ごしましょう。 |
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