「主イエスは生きておられるから」(ルカ24章1節〜12節) ( 4.5/2015 )
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」(ルカ24章5節、新改訳)

主イエスは死からよみがえられ、天にのぼり、聖霊を送ってくださり、いつもわたくしたちと共に居て下さいます。生きておられる主イエスは、

1.死に支配されない
「罪から来る支払う報酬は死です。」(ローマ6章23節、新改訳)と記されていますが、自分の力で罪に打ち勝ち正しい生活ができる人はいないことを示しています。皆、主イエスの御前にへりくだって彼に従わなければ罪に勝つことはできないのです。ゆえに、もし、何か語ることが許されるならば、それは、主イエスへの感謝のみのはずなのです。

2.迫害者を変える
使徒パウロは使徒の働き9章3節、22章6節、26章13節によりますと、鞭打たれて回心したのではなく、光に照らされて、愛を受けて回心しました。今も生きておられるキリストは愛の光でわたくしたちを導かれます。昔、思い悩んでおられる老紳士に出会い、その方に、「わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」(1ペテロ2章24節、口語訳)を通して、「ここにはいやされたと証しされています。」とお伝えしたのですが、更にその苦悩は深くなったように見えました。キリストの御傷の前に立つということは、深く傷つけられることであることを教えられました。恐らく、自分の癒しのための信仰でなくキリストの前に立つ信仰があるのです。

3.前に立たれる
ルカの福音書24章11節にも、37節にも主イエスの復活を信じられない弟子たちの姿が記されています。この弟子たちの姿を通して理解できることは、わたくしたちはキリスト抜きでも普通に日常生活を送ってしまうということです。けれども、聖霊が主イエスがよみがえられ今も生きておられることを教えてくださるときがあります。その時、ドキッと驚くのです。ただ、そんな生活が許されているということは神の憐れみがある証拠です。自分の業績(喜び)だけを求め、主イエスの十字架を忘れてしまっても、何度でも主イエスに立ち返り、彼の赦しを受け取り、その証人とされて、ただひたすら祈り神の助けを求めて生活致しましょう。「あなたがたは、これらのことの証人です。」(48節)悔い改めることに疲れてしまっていても、共に立ち返りましょう。

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