「平和」(ヨハネ20章19節〜23節) ( 4.12/2015 ) |
「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』」(ヨハネ20章21節、新共同訳) 平和の基礎は、 1.主イエスの手とわき腹(20節) 傷のある姿で外に出るのは誰でも恥ずかしいことです。しかし、主イエスの手と脇腹の傷は残っていました。わたくしたちの生活も傷が残ったままで神は生かしてくださるのです。 2.聖霊を受けること(22節) 聖霊は簡単に受けることができるのでしょうか。聖霊は何によって受けるのでしょうか。正しい生活でしょうか。信仰深い思想でしょうか。聖書が証ししているのは、無力な姿を認める生活です。マルコ9章24節には「信じます。不信仰な私をお助けください。」(新改訳)と、信仰と不信仰が同居しています。これは自分に対する信仰を捨てなさいということではないでしょうか。9章29節に「祈りによらなければ」とあります。主イエス同様に、父親にも「わたしの力では無理です」という祈りが必要とされていたのではないでしょうか。自分への期待を捨てて聖霊をお迎えしましょう。 3.赦し(23節) 「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」ルカ19章13節の放蕩の限りを尽くした(新共同訳)息子は放蕩を続けたでしょうか。神はエレミヤ3章22節の「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」という約束の通りにしてくださいました。神にはいつでも癒す力があるということです。もしかしたら、わたくしたちが癒され赦されていないのかもしれません。まず、わたくしたち自身が、今日、神の御もとに立ち返り、主イエスとの交わりに生き始めようではありませんか。隣人を赦す力も主イエスのところにあるのです。このお方のところに戻りましょう。わたくしたちが従いえないときにも心配してくださり待って下さっているお方が主イエスです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(1ペテロ5章7節、新共同訳)喜びは生きておられる主イエスにあります。喜べない方も喜びを期待しましょう。「弟子たちは主を見て喜んだ。」(ヨハネ20章20節、新改訳)。ただ主イエスを仰ぎ見ましょう。わたくしたちの信仰に欠けたところは、父に帰る時、全て満たされるのです。赦せる信仰へと癒し、喜びを与えてくださるのです。傷が痛んでも、立派な主イエスの平和の使者なのです。 |
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