「罪深い人間として」(マタイ8章28節〜9章17節) ( 4.19/2015 )
「新しいぶどう酒を新しい革袋に入れれば、両方とも保ちます。」(17節、新改訳)

教会は完全な場所ではありません。ただ、教会には主イエスがそこに名を置いておられますから特別な祝福があります。その祝福とは主イエスに出会えるということです。そして、彼に出会った人は自分自身の罪深さに気付かされるのです。

1.資格を求めません(9章1節〜13節)
主イエスが聖書を通してわたくしたちに何を語っておられるか考えてみますと、中風の男が友人たちに担がれて主イエスの前に出て来られた記事を思い起こします。彼は歩くこともできませんでした。しかし、主イエスは彼を裁かずに癒されました。今も、自分の力で教会へ近づくことが難しい、そんな困難を抱えておられても、周りの方々に(なぜ)って思われないか恐れてしまうような現状に置かれていたとしても主イエスは教会で待っておられます。批判やつぶやきは主イエスの時代にもありました(マタイ9章11節、ルカ5章30節他)。でも、聖書は主イエスを見せようとして語り継がれています。おそらく困難にあうとき誰でも最初はつぶやきます。しかし、主イエスに感謝するとき、主イエスと共に生きる喜びを知るのです。

2.問題の大きさは問題にはなりません(マルコ5章1節〜20節)
あるゲラサ人は鎖につながれていた人生を通して主イエスの力を証ししています。(自分は以前には鎖につながれてもわめき散らしていた。心は癒されることがなかった。しかし、主イエスは癒してくださった)と証言しています。

3.神がわたくしたちをつくって下さいます(マタイ9章16節〜17節)
古い革袋に新しい皮を継ぎあてはしないという話を主イエスはされました。ぶどう酒は信仰、革袋はわたくしたちの生活です。ぶどうと革袋は一緒に成熟していきます。成熟した生活を誰しも望むのですが、成熟した生活を継ぎあてますと、新しい未成熟のぶどう酒が古い革袋を破ってしまいます。あせらずに、主イエスの御手に生活の成長の速度もお任せしましょう。信仰と生活は一緒に成長するのです。頭の理解はプライドを作りますが(マタイ9章11節他)、真の神との出会いは畏れを引き起こすと聖書は証言しています。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから』と言った。」(ルカ5章8節)。ぶどう酒に応じてですので、主イエスの御前に服装(ヨハネ21章7節)も生活も徐々に整えましょう。

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