「信仰の器に満たすもの」(ローマ5章1節〜11節) ( 4.26/2015 )
「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」(2節、新改訳)

1.信仰とは
病の方も、不幸に見舞われた方も神に近づく理由を持っておられると思います。しかし、自分の弱さを思い知らされている時、神に近づくのは勇気のいることではないでしょうか。ある方は主イエスから「あなたの信仰があなたを救ったのです」(ルカ7章50節、8章48節)と声をかけられました。信仰とは病のない健康な心を持つことではなく、病があり、重荷があり、弱さがあり、それを満たす何物も持っていなくても、神が働かれる余地を持った心を持つことが信仰なのではないでしょうか。

2.信仰の器に何を満たすか
使徒パウロはコリント人への第一の手紙15章3節で最も大事なこととして「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと」を教えています。彼は心の中の神が働かれる信仰の空間に自分の野望を入れたのではなく、恐らく十字架にかかってくださっている主イエスを思い描いたのではないでしょうか。

3.罪の赦し
罪のゆるしは人間の間でなされること、というのが社会の通念かもしれません。しかし、聖書は違う物差しでわたくしたちの心を癒してくださいます。すなわち、心の中の信仰の器に主イエスを迎える時、彼の十字架の出来事はわたくしたちの心の中の罪を赦してくださるのです。社会は相手に問題の解決を求めますが、主イエスは自分自身の隣人を憎む罪を赦し癒してくださるのです。聖書は「和解」と表現していますが罪人が主イエスの十字架のゆえに神とやわらがせて頂き、赦しを受けるのです。この時、律法や自分の力の酔いから覚めて、ただ神をほめたたえるのです。信仰の器に主イエスの十字架を満たしましょう。

TOP