「神によるTPO」(ローマ9章6節〜29節) ( 5.3/2015 )
「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。」(15節、新改訳)

ヤコブは自分のことを自分でどうにかできたでしょうか。彼はあわれみの器にすぎないと聖書は証言しています。

1.時間
いつきよめられるのか、それは罪を抱えているその時にきよめられます。これは、すなわち、罪の存在に首が回らなくなって主イエスの十字架を心に受け入れます。このことを導いてくださっているのはよみがえられた主イエスであり、聖霊です。ゆえに、このことが事実であるとき主イエスに逆らうことなく従うことができるようになるのです。ただ、従順だから罪がないのではありません。罪を見出せるどうにもならない心に主イエスを迎えたのです。そして、罪人に近づいてくださる主イエスに驚嘆し続けているのです。すなわち主イエスの内住も主イエスの十字架もわたくしたちの罪と同時に起こっているのです。

2.場所
主イエスは罪人を救うために十字架にかかって罪人の罪を負ってくださいました。そして彼は彼に従おうとする者たちにも自分の十字架を負ってわたしに従いなさいと命じられました(マルコ8章34節)。主イエスについて行く所には主イエスと共に負わせていただく十字架が準備されています。自分は恐れを抱き、どうにもならないと感じることも多いですが、そこは神がおられる場所です。

3.場合(ローマ9章23節)
ヤコブには弱さがありました。ゆえに、このことを使徒パウロはあわれみの器という言葉で表現しています。その弱さとは聖霊(1テサロニケ4章8節)に恐れをいだいていたのかもしれません。しかしやがて彼は、人を欺いてもなお生かし続けて下さる神の愛に心が溶かされたのではないでしょうか。きよめの施行者は神です。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16章8節、新改訳)。わたくしたちに聖霊を送り、主イエスを見えるようにしてくださったのは神です。神はわたくしたちを義とするため主イエスを十字架にかけてくださいました。ここは、神がどうにもならない者を義と認めてくださる場なのです。

ゆえに、どうにもならないと思える時こそ悔い改め義とされましょう。「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。ですから、このことを拒む者は、人を拒むのではなく、あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです。(1テサロニケ4章8節、新改訳)」絶望が無ければ義はわかりません(1コリント6章9節〜11節参照)。神はあわれみの器に豊かな栄光を知らせると約束してくださっています(ローマ9章23節)。私たちもお互い慎み神のみことばを受け取りましょう。神の憐れみのみことば、慈しみのみことばをしっかり受け取りましょう。

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