「救われた姿」(2コリント5章1節〜6章10節) ( 5.17/2015 )
「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです。」(5章21節、新改訳)

救われた姿とはどのような姿なのでしょうか。これはその一面ですが、恐らく順風の姿ではなく

1.死んでも生きる姿
主イエスがラザロをよみがえらせたときに、「死んでも生きる」という言葉がありましたが、パウロにはうめきがあり(5章2節)、主から離れているという認識がありました(5章6節)。しかし、彼は天にある永遠の家に入る保証を感じており、それは御霊によると言っております(5節)。死んでも生きるとは、神の言葉の約束と自分の不信仰の間にうめく者が御霊に依って促されながら悔い改め神の約束を受け取る姿を言っているのではないでしょうか。

2.誇りのない姿
隣人はキリストにあって新しく造られた者となっている「キリストがすべての人のために死なれたから」(5章14節〜21節)と聖書は語ってくれています。罪とされたのは主イエス・キリストです。この赦しの方法に服従させていただきましょう。

3.しもべの姿
6章4節と6章8節には「神のしもべ」という表現が使われています。わたくしたちは困難を自分の責任と思いがちですが、しもべの人生を握っているお方は主人である神です。救いとは自分のプランから救われることではないでしょうか。ただ、パウロはキリストの裁きの座があることを知りつつ(5章10節)、神に自分の身を委ねました。そしられたり、貧しかったりするかもしれませんが、「見よ、生きており」(6章9節)、「いつも喜んでおり」(6章10節)これらも生きておられる主イエスの御業です。彼にお任せ致しましょう。

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