「既に播きて生えいづれば」(マルコ4章26節〜32節) ( 6.21/2015 )
「それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる。」(31節〜32節)

本日は、九州教区の講壇交換という機会を通して小倉教会にて奉仕できることを感謝致します。前任の森上洋介牧師は大分福音キリスト教会のためにも日々お祈りを頂いた先生であり、2013年6月23日(日)には大分市内の教会での礼拝の奉仕後に立ち寄られ、礼拝動画の画面を明るくするために献金して下さり、また、その日行われた高校生会にて創世記の講義をいただきました。また、主から与えられた愛を忘れないキリストに似た牧師(マタイ26章13節、マルコ14章9節)でございました。昨年の8月31日(日)に召されましたが、先生に倣い、すべての人々が救いを得られるようにと祈れる牧師へと成長したいと願っております(マルコ10章45節)。

今日のメッセージの聖書箇所、マルコ4章では「種(たね)」に関する譬え話が繰り返し語られております。わたくしも先輩牧師から教えを頂き励ましを受けたので、その話をそのまま取り次がせていただき更に手を加え、主の恵みを証させていただきます。

まず、「世にあるよろずの種よりも小さけれど」「既に播きて生えいづれば」「よろずの野菜よりは大きく」してくださると約束してくださっているけれども、その為に神は高ぶる者を嫌われる、そして祈りだした瞬間からサタンは手を出せなくなるということ、そして最後に主イエスはただ「わたしについてきなさい。」ただついてきさえするなら、人間を獲らせてあげよう。簡単ではないけれども涙をもって種を蒔くものは喜びをもって刈り取る、更に風を恐れては種を蒔けない、ということなのですが、本日は、からし種と言われる神の国について、それはどのような小ささなのかを学ぶことを通して神の国の様子を教えられたいと思います。

1.長血の女(マルコ5章33節59ページ、ルカ8章47節)
「すべてありのままを申し上げた」「イエスにさわった訳と、・・・話した」すなわち、小ささとは自分が抱えている苦しみそのままのことでした。そんな存在が主イエスを信じた時に赦されたという、赦されたものとしての小ささでした。

2.弟子たち(マタイ14章24節〜30節23ページ、マルコ6章48節〜49節、ヨハネ6章17節〜19節)
舟で海の中にいた弟子たちが漕ぎ悩み、そして溺れかけたようにそんな小さな存在ではないかと主イエスはわたくしたちに問うてくださっています。

3.父親(マタイ17章14節〜21節27ページ、マルコ9章24節66ページ、ルカ9章41節)
信仰とは祈りを通して神に働いていただくことであると知らなかった弟子たちと不信仰である自らに絶望している父親。

4.富める若者と子ども(マタイ19章13節〜30節、マルコ10章13節〜45節68ページ、ルカ18章15節〜30節)
受ける立場に降りることのできなかった富める若者に対して、その状態では救いは受けられないよと主イエスは教えてくださいました。

わたくしたちの罪とその小ささとは何なのか何となく、聖書の記述を書き出してみると見えてくるのではないでしょうか。神でなく自分の力により頼み祈れないそんな姿であり、神から受ける位置に下ることのできない傲慢さであり、血が流れていることを打ち明けられないプライドの高さが罪なのだと教えてくださっているのではないでしょうか。

しかし、小さな存在に座り込んできた生活も変えることができます。マルコ2章14節に登場していますアルパヨの子レビは、収税所に座っていました。しかし主イエスの声(「わたしに従ってきなさい」)を聴いて立ち上がり彼に従いました。このレビは「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とある。・・・」(ヤコブ4章5節〜10節)に応答したのではないでしょうか。(座り込んでいた私も自分が小さい存在であることを認め、その罪〔自分の力を信じているため祈れないこと、打ち明けられないこと、受けることが出来ないこと、そして従えなかったこと〕を認め悔い改めて、神を信じ神に働いていただく生活にかわったのです)と語っているのではないでしょうか。

解決は自らの小ささを認め神の世界に生きていくことです。それが祈る生活です。どんなときにも御霊によって祈りましょう(エペソ6章11節〜18節307ページ)。神を賛美するために。

また、マルコ1章17節(51ページ)に主イエスのお言葉がございますので、ただ主イエスについて行き恵みをいただこうではありませんか。マラキ3章10節〜12節(旧約1325ページ)には「わたしの宮に食物のあるように」とあります。世界は神のものです。「十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落とすことのないようにしようと、万軍の主は言われる。こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。」世界は神の世界です。主イエスの贖いの愛と支配の中にあります。経済も神の手の中にあります。人々の幸福も神によります。みんな小さな信仰に過ぎないのです。しかし、小さな信仰だから主イエスの祝福に与れるのです。

何について、わたくしたちは一番自分の小ささを認めるべきでしょうか。

それはコリント第二の手紙5章21節(283ページ)です。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。」とあります。神は隣人に罪を負わせようとすることを許されませんし、自ら罪を引きずって歩むことも許しておられません。ただ、主イエスに依る救いを示してくださっています。町の十分の一の方々の救いも神の御わざです。謙り、祈り、主ご自身に信頼いたしましょう。既に蒔いて生えでた芽は必ず主イエスのゆえに祝福に与るのです。(九州教区講壇交換 小倉教会にて)


TOP