「心に愛を」(マタイ5章43節〜45節) ( 6.28/2015 )
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(44節)

1.偶像とは
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう(出エジプト20:3-6)』
『それであなたがたは道を誤って、自分のために、どんな形の刻んだ像をも造ってはならない。男または女の像を造ってはならない。すなわち地の上におるもろもろの獣の像、空を飛ぶもろもろの鳥の像、地に這うもろもろの物の像、地の下の水の中におるもろもろの魚の像を造ってはならない。あなたはまた目を上げて天を望み、日、月、星すなわちすべて天の万象を見、誘惑されてそれを拝み、それに仕えてはならない。それらのものは、あなたの神、主が全天下の万民に分けられたものである。しかし、主はあなたがたを取って、鉄の炉すなわちエジプトから導き出し、自分の所有の民とされた。きょう、見るとおりである(申命記4:16-20)』
ところが、主イエスが神から遣わされて、「隣り人を愛し、敵を憎めと言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(マタイ5:43-45)と語られた時、人々は、今まで正しいと教えられてきた生き方を超えて神の愛は大きいということを知ったのではないでしょうか。すなわち、聖書の教えている偶像とは、神を無視した律法の教えのことであると気づいたのではないでしょうか。共感しようとせず、何が善で何が悪であるか決めつけて過ごす生き方は危険なのです。
「ある人に対して影響力が行使された結果、その人が現実に肉体的、精神的に実現し得たものが、その人のもつ潜在的実現可能性を下回った場合、そこには暴力が存在する(J・ガルトゥング、構造的暴力と平和)」

2.主イエスの教え
主イエスは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ5章)と教えて下さいました。敵とは、律法を無視するような人のことでしょうか。戦争が起こった場合は侵略者ということになるでしょうか。この敵と認識している、愛せず、敵として憎み攻撃している自分の内側には間違った部分があるというのでしょうか。主イエスは「敵を愛し迫害する者のために祈れ」と教えて下さいました。ある有名な牧師は、罪とは、いつくしむ思いを持てないことであると教えてくれています。今日から悔い改めましょう。

3.敵を愛する人々
教会に集う人々を見て幸いに感じることは、以前には仲たがいしていた子どもたちが仲直りして共に遊んでいる姿を見ることです。神のみわざに驚くのです。敵を愛するとは、相手の反応を恐れて何もできなかったわたくしたちが、好意を理解してもらえなくても恐れないで愛し続けるように変えられることなのではないでしょうか。自分自身の姿は自分では見えないものです。隣人が、少しずつわたくしたちの心に愛が与えられていることに気づくのではないでしょうか。自分の信念に変えて心に愛を、共感できる心を抱くように神が成長させてくださるのです。主イエスからの愛の御霊によって。

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