「キリストはあなたを愛している」(ガラテヤ2章15節〜21節) ( 7.12/2015 )
「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(20節、新改訳)

このところの聖書の要旨は、過去においては自分の内には律法が生きていたけれども、今は自分の内にキリストが生きておられるということです。さて、人は誰も自分の一緒に歩もうと思う者を選んでしまうのではないでしょうか。ところが、自分の願いに反して自分の愛する者から愛されることは非常に難しいのではないでしょうか。その原因は、誰しも自己中心な部分があり、気づかずして他者を傷つけながら生きているからではないでしょうか。しかし、キリストはあなたを愛しています。

1.わたしが消えるときが来る
沢村五郎という牧師は「この小さい私は神の臨在の大洋の中に消え失せた…空しくなった私の心の中にキリストの心が与えられている」(『迷い子旅日記』、47頁)と記してくれていました。さて、聖書の世界にも律法があり共に歩む人々を測る基準でした(2章11節〜14節)。そして、律法によってたどりついた結果はのろわれた者でした(2章16節〜17節、3章10節〜14節)。そして、自分が神の御前に十字架に付けられていることを認めたときに、使徒パウロは告白しています。「キリストが私のうちに生きておられるのです。」と。そして、キリストに受け入れられる時、キリストの心が生まれるのではないでしょうか。

2.十字架を見る時が来る
ローマ書8章33節〜39節には神の愛がある時に、患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣を受け止めることができたと使徒パウロは語っています。ガラテヤ3章2節に「信仰をもって聞いたから」と記されていますが、律法を行えた時ではなく、キリストの愛とキリストへの神の愛そして全く罪以外にない者のためにくびきを負ってくださるキリストを知った時(マタイ11章29節)、神を身近に感じるのではないでしょうか。

3.隣人と共に愛される
すぐに、自分の弱さが露呈する日々ではないでしょうか。しかし御霊は、それぞれに兄弟と共に受け止めさせようとしておられるのではないでしょうか(ガラテヤ6章1節〜2節)。「キリストが私のうちに生きておられるのです。」共に歩むと言ってくださるキリストの愛を受け取りましょう。

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