あなたの露は光の露(イザヤ書26章1〜21節) ( 10.4/2010 ) |
「あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。」(19節) まず大まかな時代とメッセージですが「ちりにかえされる。」(5節)と語られていますが歴史の中ではメド・ペルシャがバビロンを制圧した時、その時点においてバビロンは壊滅されたのではなく、バビロンはペルシャの力の前に降伏したため破壊行為は無かったと聞いてますし、一方母国への帰還を許されたイスラエル人も様々な妨害のためにエルサレムの城壁を築き城門を復興できたのはかなり後の時代になります。ですから、「門を開いて」(2節)というのは個々人の心の門であると考えることもできると思います。ゆえにいつの時代のものか特定できませんが、確かに「信仰を守る正しい国民を入れよ」(2節)という言葉をもって預言者は正しい国民になることが大切であることを伝えたかったのです。その正しさとは正義を学び(9節)、神の顧みとあわれみによって生活を変えることでしたが、ある人々は無関心であったようです(10〜11節)。 10節に「正しい地にあっても不義を行い、主の威光を仰ぐことをしない」とありますが、不義とは何でしょうか。 21節には「地に住む者の不義を罰せられる」とも語られています。「主は」という言葉を借りて預言者は人々に神のさばきのメッセージを送っています。 けれどもその問題の本質は、語っても自分の人生を変え得ない力の限界にあったのではないでしょうか(16〜18節)。ゆえにすべてを神に期待して19節に神の恵みを「あなたの露は光の露であって」と表現しています。 時代は下ってイエス様の弟子たちがイエス様に重荷を負う方について「罪の問題ですか?」と質問したところが聖書に出ていますがイエス様はそれを否定されました(ヨハネによる福音書9章)。(預言者もこのようであれたらな)と思います。どのように困難な問題にも、さばきのメッセージでなく立ち上がる力が与えられる時が必ず来ることを信じて「あなたの露は光の露です。」と語ることができたらと思うのです。 |
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