「渇いた魂に潤いを」(ヨハネ4章1節〜26節) ( 7.26/2015 )
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

昨日、「延命の〇」という看板が目に留まりました。母に「延命できるそうよ」と言いますと「永遠より長い命ってあるのかな」と問い返されました。(永遠の命を確信できる信仰ってどんな信仰なのだろう)と思いました。それは恐らく、(死んだ後にお会いする神と、現在も日々共に生活しているからなのではないか)とも思いましたが、どうすれば神を実感できるのでしょうか。

1.罪に心痛めること(17節〜18節)
サマリヤの女性は主イエスに出会い、自分のしたことを全部言える方として主イエスを知り(29節)、主イエスをキリストとして受け入れました(25節〜26節)。彼女の生活の中心は、以前においては自分自身だったと思うのですが、主イエスと出会ってから(もし、主イエスが私の中心にいてくださったらどうなっていただろうか)と考えることができるようになったのではないでしょうか。そして、罪を知ったのではないでしょうか。

2.礼拝すること(23節〜24節)
主イエスは霊とまことによって礼拝するようにと教えて下さっています。この井戸端の会話のきっかけは渇きです。これは喉の渇きでしたが、同時に神を知らない渇きでした。わたくしたちも神の霊を受けて渇きを癒していただこうではありませんか。

3.主イエスを礼拝すること(26節)
命がカラカラというような時に感じることは、主イエスから離れた生活をしてしまったということではないでしょうか。すなわち、傷つくことを恐れ自我の達成をひたすらに求めてしまった時、人は渇くのではないでしょうか。一方、主イエスは神に身を委ね、傷つき、倒れ、わたくしたちの罪を負い、死なれました。しかし、神によってよみがえってくださいました。魂の潤いとは、自我の結果ではないと教えているのではないでしょうか。罪人を赦し愛されたお方と一つ思いになることではないでしょうか。

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