『人生の土台』(マタイ7章24〜29節) ( 10.10/2010 )
「風が吹いて…も、倒れることはない。岩を土台としているからである。」(25節)

この箇所はいわゆる山上の説教のまとめの部分。山上の説教は御国の民、
すなわち、新約では主イエスの血によって贖われたクリスチャンに対する説教。
その応答の態度を門、実、土台という三種類の譬えで語られた。御言葉を聞いた者はそれに従うか、否かの二つの選択を迫られる。御言葉に従う人とは?

1.「聞いて行うもの」
行う、とは聞くこと。行わない人は、そもそも聞いていない。神は、子である民に対して、どんな献げ物より、奉仕より、善行より、真面目さより、何にもまして、ただ神の言葉を「聞く」事を求められる。主の言葉を聞かずに主の御心をよく行うことができるだろうか。「聞くことは雄羊の脂肪にまさる」(サム上15:22)。

2.賢い建築家・岩の土台
聖書の中で言う「賢い人」とは、世の知恵や自らの経験に頼らず、神の語られる御言葉を頼りとする人を言う。「主を恐れることは知識のはじめである」(箴1:7)。

家に定住することは、流浪の民イスラエルの人々にとってあこがれ。家は長い人生を表す。安心して長く住む家を建てることはどんなにか慎重を要することか。どんなに立派な家を建てる人も、自分の人生を間違いなく建て上げることは難しい。私達の人生を建てるのは、賢い建築家である神に頼るのが最も安心。最高の建築家はまず土台を選べと教える。人生の土台を何に置くか。どんなに華やかな生活を送っても、世の中でまじめに人生を送ったとしても、もしたった一つでもあなたに暗い影があるなら…隠し事、憎しみ、裏切り、悪習慣、空しさ…。それが人生のすべてを覆す危険因子にならないとも限らない(創4:5)。そこに安心はない。確かな土台、それは罪ゆるされていること、天国への保証。その保証は御子イエスの血。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめる」(Tヨハネ1:7)。ここが確かであれば人生を揺るがすものは何もない。死でさえも。

3.「雨・洪水・風」=「最後の審判」
「洪水」とは、最後の審判を表す。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)。その時、神のさばきに耐え得るものは何もない。ただ、御子の血がつけられているかどうか、それだけがその人の救いの保証。ノアの箱舟に塗られたアスファルト、出エジプトの時に塗られた小羊の血のように、裁きの中にあって血の中に隠れる者だけが救われる(出12:13)。
嵐に耐えるのは御子の血による救いを土台とした人生のみ。他は砂の土台。

結.二種類の選択
7章の後半で、二つの道、二つの実、二つの土台から選ぶよう迫られる。神の御言葉に従わない人生は、多くの人が行く、安楽だが、偽りの匂いがする見せかけの人生。その最後は滅び。永遠をも保証する、確かな土台に立ちたい。

「そして、この土台はイエス・キリストである。」(Tコリント3:11)
(説教者 田代美雪牧師)

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