「父の約束」(使徒の働き1章1節〜14節) ( 10.18/2015 )
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(8節、新改訳)

ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、父なる神は聖霊に依ってバプテスマを授けてくださると主イエスは教えました。その時、彼らが期待したのは、罪に罪を重ねた結果バビロンに捕囚となり、解放された後も、ローマの支配下に降っている自分たちが、もう一度悔い改めるなら、神によって国を再興していただけるのではないかというものでした(6節)。しかし、主イエスの答えは、父が権威をもって定めておられることは知らなくても良いというものでした(7節)。そして、国の再興とは違う聖霊の目的があり、それは、主イエスの証人にするというものでした(8節)。ルカ24章49節は、父の約束(聖霊)について、「いと高き所から力を着せられる」と教えています。父の約束(聖霊)は、

1.臨むもの
受けるものであるということです。自分の努力で獲得できるものではなく神からの賜物です。「祈り」という、受け取る姿勢を取るときに与えられます。

2.力
自我で一杯で、神に従えなかった心に、十字架の意味が示され、十字架が無くても救われることができるかのような振る舞いをしてしまっていた人々が十字架の愛を受け取り悔い改めるのです。

3.証人とする
証人とは、血の証人(使徒22章20節)、殉教者(黙示録2章13節)という意味を持つ言葉です。では、生きていながらどのように死ぬのでしょうか。劇をする方は自分とは別な存在を作るために自分に死んで演じるのだと思います。殉教者、証人とは、自分の内側から飛び出して自分を客観的に見て、神の側について、目の前に存在している自分に(へりくだっていいんだよ、隣人の罪を自分のものとして(ローマ8章37節)お詫びして良いのだよ、本当の愛で愛して良いのだよ)と語りかけるのです。
使徒パウロは、患難も剣もキリストの愛から自分を引き離すことはできないと言いました。「我等をキリストの愛より離れしむる者はたれぞ、患難(なやみ)か、苦難(くるしみ)か、迫害か」(ローマ8章35節、文語訳)。キリストの愛の体験(罪人のために十字架にかかってくださった愛)を受け止めたとき、父の約束は彼の上に実現したのです。彼の心に燃えていたのは、キリストの愛でした。生きておられる主イエスが主となって愛させてくださるのです。

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