「礼拝者の姿」(エゼキエル1章1節〜28節) ( 10.27/2015 ) |
「これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。」(11節、新改訳) エゼキエル(「神は強めてくださる」の意)は紀元前597年にバビロンに連れて来られ(2列王24章10節〜16節、2歴代36章9節)、その後5年後に1章に記されている体験をし、預言者としての活動を始めました(紀元前593年-紀元前571年)。1節の第30年とはエゼキエルの年齢を指していると言われています。 分解 1章-24章 エルサレム滅亡の預言、25章-32章 諸国民についての預言、33章-48章 回復の預言 (エルサレムは紀元前588年ネブカデネザルの軍勢に包囲され、紀元前586年に陥落しています。) 1章の内容は、1節〜3節 幻を見た時と場所、4節〜14節 4つの生き物の姿とふるまい、15節〜21節 4つの輪の姿とふるまい、22節〜25節 礼拝の姿、26節〜28節 王座にいます人の子。 1.異邦の地での礼拝の幻の意味 エゼキエルが幻を見たのは、ケバル川のほとり、すなわちエルサレムではなく異邦の地でした。エゼキエルの時代、神を礼拝する場所はエルサレム神殿か会堂しか認められていませんでした。エゼキエルにとっては理解できない光景でした。しかし、3章まで進みますと、そこにはなぜ神がこのような幻を見せられたのか、その答えがあります。(参考までに、カトリック教会は礼拝にはミサという秘跡が伴うので司祭がいないと成立しません。ゆえに、礼拝は共同体である教会だけで、その他は祈りの場。プロテスタント教会は教会で行われるのが公同礼拝、家で行われるのが家庭礼拝、個人なら個人礼拝。ちなみに、イスラームはカアバ神殿に向かって祈るのが礼拝で、夜明け、夜明け以降、影が自分の身長になるまで、日没から日がなくなるまで、夜の一日5回礼拝をしています。) 2.礼拝されるお方 4つの生き物には、それぞれ4つの顔があり、それは人、獅子、牛、鷲の顔でした。この4つの生き物は10章15節によるとケルビムであり、契約の箱の上にも神の神聖と力を象徴する生き物として置かれていたので、このところにケルビムが登場している目的は、神の神聖と力が強調されるためであったと言えます。『神は焼き尽くす火でいまし、契約を保つ恵みの主として輝きたもう』(27節)(米田豊著「全一巻 旧約聖書講解」539頁 昭和28年) 3.礼拝者の姿 4つの生き物には常に輪が伴っていました(15節〜21節)。それは生きものの霊が輪の中にあったからと説明されています(20節)。ある注解書には四方のどこにでも行くことができることと解説してありましたが、米田は、『神の摂理の動きは無限の知恵に満たされ指導さるること』と引用し解説しています(前掲書 539頁)。そしてこの輪の中(神の無限の知恵)に置かれ指導された生き物の姿は、二つの翼で互いに連なり、他の二つの翼でおのおののからだをおおっていました(11節、23節)。互いに連なるとは、神の摂理の動きであり、神を愛した結果手を結び合う礼拝者の姿であり、二つの翼でからだをおおうとは、罪を認めながら神のあわれみにすがり続ける礼拝者の姿なのではないでしょうか。神の輝き(27節〜28節)は罪を認める人々に現されます。しかし、「それは主の栄光のように見えた。」(28節、新改訳)とあります。すなわち、人間の罪に左右されず、神は輝いておられます。燃える火の裁きを御子(主イエス)の上に下し、輝かれるのです。神の輝きは赦しの輝きです。 |
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