『あなたを待つ愛』(ルカ15章11節〜24節) ( 11.10/2015 )
「父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20節)

1.「自分は愛されていない」
世の中に二種類の人がいるとすれば、一方は愛されていることを知っている人。他方は愛されていることを知らない人。「自分は愛されていない」。世の悲しみはここから始まる。「人の心には神の形をした空洞があり、神以外にその穴を埋めることはできない」(パスカル)。
この物語の父は確かに息子ふたりをそれぞれに愛していた。しかし、弟息子はその愛を信じることができず不満はつのるばかり。ついに遺産を先にもらい、家を出た。父の目の届かない所、そこに自分の真の自由と幸せがあると思っていた。弟息子はありとあらゆる享楽を試みたことだろう。偽りの友人も集まってきた。面倒な問題もお金ですべて解決できた。息子は十分満足していた。しかし、多額のお金はあっという間に消えていった。お金が尽きると誰も見向きもしなくなった。当てにすると疎まれた。すべては偽りの関係だったことに今更ながら気づいた。真実はどこにもなかった。

2.神の介入
折しも弟息子の財布に一円もなくなったその時、その地域をひどい飢饉が襲った。皆、自分の家族を食べさせることで精一杯。人の心に憐れみさえもなくなった。神の御介入は時として人に苦痛を与える。人間はすぐに心が高ぶるものなので、そうでもしないと自分の本当の醜さに気がつかないし、自分がどこから落ちたのかも分からない。富裕な農家の次男坊が豚以下の扱いに。いよいよ、生命の危機に瀕した時、彼は「我に返った」。自分は何者で今の自分がどんなに落ちぶれた者になっているかを。そしてどこで間違ったかを。「私は罪を犯しました」。神がこの言葉をどれほど待っているか分からない。人間の間でさえ謝るべきことを謝らず、良い顔だけして付き合われると悲しい。しかし、人は神にそのようにしていないか?悔い改めなしに美辞麗句で神を礼拝する事を神は疎まれる。最も美しい言葉は「ごめんなさい」。神は砕けた心を軽しめられない。両手で迎え入れてくださる。
「彼はそこをたち、」(新共同訳)古い自分と決別し、本来の自分に帰る道に歩き出した。

3.待ち続ける愛
一方の父は、弟息子が去った日から、出て行った道を毎日見続けていた。来る日も来る日も悲しみの夜は続いた。もう死んだものと何度も諦めようとしたが諦めきれなかった。しかし、ついにあの息子が帰ってきた!ある絵では片方ずつ違う靴を履いた老人が駆け寄っているという。はらわたが引きちぎられるような思いで思わず走り、抱き、何度も何度も接吻して止まなかった。息子はこれほどまでに自分が愛されていることを初めて知った。「雇い人に・・・」と、何度も練習した言葉を父は遮った。「お前はわたしの子だ!」と。その証拠に彼の為に用意していた祝い事の着物、印鑑付きの指輪、自由人の靴を着せて。
走り寄ったのは子でなく父。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Tヨハネ4:10)

4.もう一人の放蕩息子
この父にはもう一人の息子がいた。真面目で働き者の兄。しかし、その心は父への隷属感で一杯。好き勝手やっている弟を軽蔑しながら内心羨んでいた。この兄も父から「愛されていない」と思っている「放蕩息子」。心は遠く父から離れている。彼も父の愛を知らなければいけない。父は彼も愛し、慰め、兄にも父の愛が分かる日が来る事を待ち続けた。

結.「祝宴を始めた。」
神の食卓に空いている席がある。そこに座るべき人が帰ってくるのを神は待っている。「祝宴を始めた」。ここに神の愛の目的がある。わたしを待つ神の御愛を知り、神のふところに憩う幸いに入ろう。
(説教者 田代美雪牧師)

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