「救いを与える栄誉」(イザヤ42章1節〜9節) ( 12.1/2015 )
「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。」(8節)

イザヤ書には「主のしもべの歌」と言われるものが4回出てきます。すなわち、42章、49章、50章、52章〜53章です。本日は42章を通して主イエスのお生まれになる750年前に預言された言葉を学びましょう。

1.マタイが見た神のしもべ(1節〜4節)
イザヤが見た神のしもべはクロス(イザヤ44章28節、45章1節、ダニエル5章30節、エズラ1章1節他)だとか、イザヤ自身だとか、イスラエルの民だとか諸説ありますが、マタイは公義をもたらす者(イザヤ42章1節、3節)として主イエスを見ました(マタイ12章1節〜16節)。それは主イエスが律法を告白するだけでなく、律法を行っていたからです(マタイ22章36節〜40節)。マタイ12章15節には「多くの人がついて来たので、彼らをみないやし」と証言されています。ヨハネ6章39節には「ひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせる」とあります。何年後か分かりませんが大きな希望です。「いたんだ葦を折ることもなく」とあります。痛んでいるだけで折れていないし折らないと約束されています。

2.神は連れ出される(5節〜7節)
「囚人を獄屋から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す」(7節)獄屋にいる者とは、悔い改めて生活を変えることができない人々のことです。主のしもべが、主イエスがわたくしたちを連れ出してくださいます。続くイザヤ43章1節には「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。わたしはあなたのもの。」とあります。悔い改めることもできない者の名を呼んで下さり、正しい新しい人生へと導いてくださるのです。

3.栄光は神のもの(8節〜9節)
偶像と真の神との違いはどこにあるのでしょうか。真の神は先に起こることを聞かせることができますが、神々(偶像)には預言ができないのです。そして、その真の神はご自身の栄誉を刻んだ像どもに与えないと言っておられます(8節)。
ある牧師のおばあさまが主イエスを信じたきっかけになったのはおじいさまの葬儀だったそうです。その牧師は一度もご遺体に礼をしなかった為、親戚たちにひどく責められおばあさまにも叱られたそうです。しかし、その牧師は、ご遺体は神ではなく礼拝の対象ではないのだと丁寧に説明し、「生きておられるなら1日に10回でも100回でもお辞儀します。」と言って、毎朝おばあさまのお部屋を訪問し、「おばあちゃん、いってきます。」と深々とお辞儀してから登校したそうです。聖霊が働いてくださって、数か月後、おばあさまに聖霊によって感動が与えられて主イエスを信じたそうです。そして一緒に忠実に礼拝に通われたそうですが、その後も時間のあるたびにお部屋を訪問しおばあさまの手足をマッサージしたり、飴玉をプレゼントしたりされたそうです。
救いを与える栄光は神のものです。

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