教会も仕分け?(イザヤ書27章1〜13節) ( 10.18/2010 )
「そしてあなたがたは、ひとりびとり集められる。」(12節)

イザヤ書27章にはレビヤタン(レビヤタンとはアラビヤ語で曲がりくねる動物で水ヘビなど水中の怪物を意味するそうです)が裁かれると記されています。すなわち急流のチグリス川に沿うアッシリアと曲がりくねるユーフラテス川に沿って発展したバビロニア帝国を指していると考えられます。この27章はこの後、バビロン補囚を体験することになったイスラエルの人々にとって大切な意味を持っているところです。

イスラエルの人々が神を認め、律法を重んじるようになったのはバビロン補囚の時代からであると考えられています。神の手による自国へのそしてバビロンやアッシリアへの裁きを通して悔い改め神に立ち返り偶像を捨てたというのがイスラエルの歴史であり、宗教指導者たちの大切にしてきたシナリオです。

日本でも最近事業仕分けといって行政の事業の必要性ややり方を公開の場で外部の視点を入れて問い直すことで、硬直化した国や自治体の事業の再構築を試みています。必要、不必要、善、悪と仕分けして行政の形を変えようとしています。ただイスラエルの場合はその目的が資金・財源の捻出ではなく罪を除くことでした(9節)。しかし、11節に大変難しい言葉が記されています。それは「これは無知な民だからである。それゆえ、彼らを造られた主は彼らをあわれまれない・・・」です。ベルリンのドイツ歴史博物館では今月の15日から第二次世界大戦後初めてヒトラー展が開かれているそうです。

人を愛することよりも、何か人を差別する思想を生み出してしまう危険性のあるものは積極的に避けなければなりません。イエス様が律法よりも隣人を大切にされたように私たちも隣り人を大切にいたしましょう(ヨハネ4章9節)。今は新約聖書の時代です。分けたり裁いたりしないで集めましょう。

TOP