「諸国民の光へ」(イザヤ49章1節〜6節) ( 12.8/2015 ) |
「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、 ヤコブの諸部族を立たせ、 イスラエルのとどめられている者たちを 帰らせるだけではない。 わたしはあなたを諸国民の光とし、 地の果てにまでわたしの救いを もたらす者とする。」(6節) 本日は、しもべの歌の2番目を学びましょう。 6節の「〜だけではない」は、同じ用法が使われている2サムエル6章22節では「私はこれより、もっと卑しめられよう」と訳されています。すなわち、「わたしはあなたを諸国民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者となる」には、もたらす者として、更に卑しめられることが含まれています。諸国民の光とは、 1.矢筒の中に隠された者(1節〜2節) 生れる前から神に召され、母の胎内にいる時から名を呼ばれ、そして鋭い剣のような口を与えられていますが、現実の世界では、未だ神の御手の陰に隠された者なのだと啓示されています。矢は神の手に納められ神は栄光を現そうとされるのですが。 2.骨折った者(4節) 「むだな骨折り」、「いたずらに」、「むなしく」は、結果が出なかったことによって落胆している姿を表しています。しかし、彼は「私の報酬は、私の神と共にある。」と告白していますので、彼は既に力を失っていたのですが、ただ、彼に残されたのは神と共にいるのだという確信であり、神のみことばに従ってきたという確信でした。 3.卑しめられることだが救いをもたらす者とする(5節〜6節) 力を使い果たした神のしもべに対して5節以降に、改めて言葉がかけられています。すなわち、(矢筒の中で既に疲れてしまいました)と告白する神のしもべに対して、イスラエルだけでなく諸国民の為に、地の果てまでわたしの救いをもたらす者とすると預言されています。ただ、言葉のニュアンスは(イスラエルを立ち返らせるよりも更に卑しめられることだが)というものです。 神は、「あなたはまだ私の矢筒の中にある」これから用いようしていると言われ、しもべは「既に使い果たしました」と告白し、更に主は、より卑しめられる道だけれども「諸国民の光とする」と語られています。神のみことばに誠実に応答していきさえするならば、たとえ、疲れてむなしくなることはあっても、行く道に困難が予想されても、その道は今とは比較できないほど大きな神のみわざなのです。彼のみわざに与りましょう。 |
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