「平安への招き」(イザヤ書53章1節〜12節) ( 12.15/2015 )
「しかし、彼は、私たちの咎の為に砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5節)

イザヤ書は多くの学者によって研究されてきました。その結果、独立を保持しようとしたがアッシリアの圧力とマナセによる圧政により、列王記下21章16節の迫害によってイザヤは死んだのではないかと言われています。そして40章から55章の論点は神殿再建が独立運動とみなされて苦難の死を遂げた指導者(ダビデ王朝復興を画策したが失敗した人物)により苦難のしもべというメシア像が与えられ、56章以降のハガイやゼカリヤが立てられて神殿が再建される頃のメッセージは、苦難のしもべによって贖われた真の貧しい人々がイスラエルを再建すると宣言されています(イザヤ58章6節〜12節)。政治的メシアから苦難のメシアへ、そして、だんだんと神の預言は明るくなり、そのことが祭儀や王権によらない正義と平和を目指す国家へと進展し、主イエスによる神の国に近づいて行くのです。さて、イザヤ書53章のメッセージは苦難のしもべについてのメッセージであり、ここには罪を負ってとりなす姿が預言されています。

1.病を負うお方(4節)
痛みは病から来ていました。この病には「やせる」「顔色が悪い」「力が抜ける」などの症状が示されています。このようなとき、共に歩んで下さる方はお医者様や看護師さんでしょう。また、家族でしょう。しかし、ここには「負った」(4節)と書かれています。負える方がいるのでしょうか。9節〜10節に「罪過のいけにえ」となって負ったと説明されていますが、何よりも、ローマ5章8節に「まだ罪人であったとき」とあります。病院のことを批判して近づきもしない人が、もしかしておられるかもしれませんが、ここでは、神を批判し、否定し、近づきもしない人の為にもキリストは罪を負い、たったひとりの喜びであり続けて下さり、戒めを守ることで愛の対象とまでされると教えられています(ヨハネ14章21節)。

2.満足するお方(11節)
家族や親族の愛を思うときにこのみことばが思い出されます。自分の罪を負っているのに、優しい笑顔で接せられると、(この愛はなんだろう)と思うのです。神も、主イエスの犠牲のゆえに、私たちを見て満足しているという表情で見つめて下さっているのです。すなわち、どんな苦しみが存在しても「満足」は神がわたくしたちに与えて下さるのです。主イエスを信じる人々には主の「満足」が分捕り物として分かち合われるのです。

3.洗礼への招き(5節)
ピリポはエチオピア人の高官に対して「ほふり場に引かれて行く羊」(使徒言行録8章26節〜40節)を主イエスであると証言しています。そして、宦官はその場で馬車を止め、水辺に降りて洗礼を受けました。イザヤ53章5節の「いやされた」とは、神と人間の断絶の回復による「平安」のことを言っています。主イエスの十字架を信じ、受洗し、罪赦され、神と和解しましょう。そこには、隣人の証言にはるかに勝る平安があります。

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