「主の名を呼ぶ者は」(ヨエル2章12節〜32節) ( 1.1/2016 )
「しかし、主の名を呼ぶ者はみな救われる。」(32節)

新年、あけましておめでとうございます。今年、この教会の為に主が与えて下さったのはヨエル書2章32節です。どんな宗教的な土壌の中にあるわたくしたちであったとしても、主の名を呼ぶならば主は救ってくださるのです。
ヨエル書の著作年代はその文章の中に明示されていません。しかし、3章4節から8節の状況から推定しますと、アッシリア人やバビロニア人でなく、ペリシテ人とギリシャ人が奴隷売買をしていることから(紀元前500年〜350年)と言われています。すなわち、バビロン捕囚を経験した人々に対して、さばきは過去のことではなく、後に主の日が来ることを告げているのです。しかし、「荒野の牧草はもえ出る。」(2章22節)のです。回復は主に依って始められているのです。

新共同訳聖書に従って分解しますと、〔〕内は新共同訳聖書の章節です。
1章1節〜1章20節 いなごによる荒廃
2章1節〜2章11節 主の怒りの日
2章12節〜2章27節 主の慈しみ
2章28節〜2章32節〔3章1節〜3章5節〕 神の霊の降臨
3章1節〜3章15節〔4章1節〜4章15節〕 諸国民の裁き
3章16節〜3章21節〔4章16節〜4章21節〕 ユダの救い

1.神の裁きは耐え難い(2章11節)
「主の命令を行う者は力強い」いなごによる滅亡か、アッシリアによる襲撃か分かりませんが主の裁きの徹底していることが言い表されています。ある牧師がタラントのたとえ話(マタイ25章14節〜30節、ルカ19章11節〜27節)をされた時に、このタラントとは時間のことですよと解説してくれました。人生を懸命に生きても、もし、それが神から離れた人生だったとするなら、それは、空しいものとなってしまうというものでした。いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなごは食いつくす、けれども、それにはメッセージがあるのだというのです。神はわたくしたちに目を向けてほしいと願っておられるのです。

2.神に立ち返れ(2章12節〜2章14節)
「あるいは、主が思い直され その後に祝福を残し あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を残してくださるかもしれない。」(14節、新共同訳)(そんな、確約がないのに悔い改めることができるでしょうか)と思ってしまう弱いわたくしたちかもしれませんが、不確かなのはわたくしたちの側なのです。ゆえに、2章13節に「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け」とあります。
そして1章14節には「断食の布告をしきよめの集会のふれをだせ」、2章15節にも「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。」とあります。断食とは、聖なる目的の為に他とのものと区別する決断を迫ってくださっているのです。また、主イエスも「いつも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18章1節)と教えて下さっています。神は涙の祈りをないがしろにされません。「泣いて」(ヨエル2章17節)、「わたしに立ち返れ」(2章12節)。(わたしという目的に到達する)と注解されていましたが、聖霊によってはじめてわたくしたちの心は満たされるのです。

3.主に呼ばれ主を呼ぶ約束された関係(2章32節)
「主が呼ばれる者がいる」と32節の後半に記してあります。わたくしたちは主が呼んで下さるから主に近づけるのです。これは主のなされる不思議なみわざです。ゆえに、今、主に近づけられているならば、あとは、主の名を呼ぶことです。そうすれば、いなごの被害にあっていた地が「すべての谷川には水が流れ、主の宮から泉がわきいで、シティムの渓流を潤おす」(3章18節)、そのような豊かな地に回復されるのです。1コリント3章16節から17節には、「だれかが神の神殿を壊すなら、神がその人を滅ぼされます」とあります。すなわち、神の御霊以外の喜びは成就しないのです。神はあなたを御霊の住まわれるところとして選ばれ、その属性を聖と定められたのです。ゆえに、聖別されることを喜びましょう。その中に本当の喜びがあるのです。どんなに過去において、いなごに痛めつけられていたとしても回復の日が来たのです。主はあわれみ深く、情け深い神なのです(出エジプト34章6節)。いなごに代えて御霊を受けましょう。「わたしの霊をすべての人に注ぐ。」(2章28節)

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