「生涯を通して証すべきこと」(使徒の働き5章16節〜35節) ( 1.26/2016 )
「そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。」(31節)

神に与えられた生涯を通して証すべきことは、自分自身ではなく、「神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました」ということです。そして、そのことを証するのが聖霊です。一方、アナニヤと彼の妻サッピラは聖霊を無視し、主イエスではなく自分自身の何ものかを証しようとしてしまったようです。また、大祭司たちはイエスのよみがえりを聞くと怒り狂いましたが(33節)、ガマリエルに諭され、「神に敵対することのないように」との言葉を受けた時に(39節)手を引くことができました。聖霊と神がキーワードではないでしょうか。

1.お金で救われるのか
アナニヤとサッピラは自分の財産をささげて貧しい方々を助けようとしました。しかし、彼らが証してしまったのは自分自身の力だったのかもしれません。その結果、サタンに心を奪われてしまいました。「自分のために残しておいた」(3節)というのは、何が悪いのかわからないと思えるところですが、悪かったのは使徒たちを欺いてしまった点です。聖霊は(だめだよ)と語ってくださっていたのに、彼らの目的が間違っていたために、行動の間違えに気づかなかったのです。貧しい人々を助けなければならないのですが、それは、主イエスの御業としてさせていただかなければならないことだったのです。主の御わざのためにささげられることを聖霊は望んでおられたのです。

2.悔い改めの道
アナニヤとサッピラのためには聖霊が長い時間をかけて説得してくださったはずです(9節)。公の場に出る前の、聖霊が語ってくださる時が悔い改めの機会でした。アナニヤとサッピラにとっての救いとは経済的な豊かさだったのかもしれません。その豊かさを隣人に証しし、できるだけ分かち合いたかったのだと思います。しかし、同じ5章の中で、ペテロは何も持っていなかったのに多くの人々の癒しのために用いられていたように、何を持っているかではなく(何をささげることができるか)ではなく、どなたを信じているか、すなわち、どなたを証しするかで、神のわざが成されるかどうかは決まるのです。すなわち、聖霊が語ってくださる間にアナニヤとサッピラも主イエスを信じる必要があったのです。お金ではなく主イエスが救いなのです。一方、大祭司たちはガマリエルに説得されて(33節〜42節)39節にありますように、神に敵対することのないように手を引くことができました。聖霊がガマリエルを用いてくださって大祭司たちは罪を犯さずにすんだのです。神の御名は、人によらず神が証しなさるのです。人は用いられる器なのです。

3.生涯を通して証すべきこと
生涯を通して証すべきこと、それは、主イエスに救いがあるということです。4節に「なぜこのようなことをたくらんだのか」とあります。心に聖霊を迎えましょう。たったひとつのかけがえのない心ですので、よいお方をお迎えしましょう。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マルコ8章34節)。「わたしが与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。…この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行っていることを世が知るためです。」(ヨハネ14章27節〜31節)。悔い改めて、世を恐れないようにしましょう。世は主イエスに対して何もすることはできないのです。

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