「神に従う者」(エゼキエル3章1節〜3節) ( 2.2/2016 )
「その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』」(1節)

人が神の救いにあずかるには神の言葉に従わなくてはなりません。このエゼキエル3章では、預言者であるエゼキエル自身が神の声に従うようにと命じられています。

1.神に従う者とは、立派に見せることではない(1節〜3節)
エゼキエルが神に命じられたこととは、巻き物を食べ、そしてイエスラエルの家に告げることでした。この「巻き物を食べる」とは何を意味しているのでしょうか。まず、巻き物に記してある内容を丸ごと信じることでしょう。そして、行うことでしょう。そして、それは、自分でなく神に救いがあることを信じることです。更に大切なのは、(巻き物を食べる変な人)と見られても良いのということです。変な人を信じたくないと人々から思っていただけたら幸いです。人(預言者)を信じるのではなく神(主イエス)を信じるときにその人は救われるのです。神を信じるように語るのが預言者の務めです。

2.神の言葉を告げる責任を果たすこと(4節〜21節)
悪者には警告を与えること(18節)、すなわち、悪者には悪の道から離れて生きのびるように語らなければなりません。また、正しい人がその正しい行いをやめて、不正を行うなら、正しい人に警告を与えて、悔い改め悪の道から立ち返ることを勧めなければなりません。そして、「あなたも自分の命を救うことになる」(19節、21節)とありますので、預言者も神によって救われる誇るところのない存在にすぎないのです。

3.反逆の家を神は嫌われる(22節〜27節)
主の御声を聞いて出て行き、主の栄光を見てひれ伏したエゼキエルは、聖霊によって立たされますが(24節)、なんと、語ることは許されません。反逆の家だからだというのです(26節)。聞く者がいるときには神が預言者の口を開かれるので(27節)、『神である主はこう仰せられる』と語れるのです。人々が神に従う気持ちを持っているのか持っていないのかが問われています。

神が私たちにとってどうして必要なのでしょうか。マタイ19章26節によりますと、神のわざを認めないと救いがないからです。また、マタイ22章30節によりますと、地上の栄光は永遠の御国では通用しないからです。通用するのは神の栄光だけです。神は良いお方です。ヨセフは兄弟の手で売り飛ばされエジプトで奴隷として過ごしますが、彼はのちに、「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50章20節)と語り、兄弟たちを赦し、保護しました。神の愛は人の悪よりも遥かに強いのです。また、試練も起こると思いますが、マリヤのためには「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。…神にできないことは何一つない」(ルカ1章35節〜37節、新共同訳)と御使いによって告知されました。西舞鶴教会の三村克夫牧師は「マリヤの応答は、私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。真の献身であった。信仰は神の新しい命に生かされることだ。私は20才まで父母の古い命だったが、主を信じ20才〜神の命に信仰の故に与った。何もマリヤだけが神の恵みの占有者ではない。信じる者は誰もが神の恵み主イエスを心の中に賜れるのが信仰だ。」と説教しておられます(2015年12月6日)。神の恵みはあなたのものです。

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