「福音のため」(マルコ10章29節〜30節) ( 2.16/2016 )
「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。』」(29節〜30節a)

神は昔、聖書がまとめられる前の時代には直接人間に現れて語られましたが、今は聖書のお言葉を通して私たちに語ってくださいます。例えば、私の場合はこの説教の要旨をまとめるときにも神の助けを求めて祈ったのですが、神が祈りの中で心の中に語って下さったみことばは「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」(詩篇46篇1節、口語訳聖書)でした。(恐れなくてよい、あなたはわたしのものだから)と神は励ましてくださいました。
さて、今の時代も神は語ってくださるのです。今の教会の直面している問題のために祈らせていただくとき、神はどのみことばによって励ましを与えてくださったのかと言いますと、「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。』」(29節〜30節a)でした。

1.福音を受け入れる生活
この聖書の言葉からわかることは、仕事に熱心になればその苦労を家族が負うことになるのと同じように、主イエスに従う生涯を送るときにも、その苦労を身近な方々に強いてしまうことになるという意味です。しかし、仕事の場合には、会社や自分や自分の家族のために苦労を強いるのですが、このみことばは「わたし(主イエス)のため、福音のため」の苦労です。主イエスのための苦労とは何なのでしょうか。それは主イエスの言葉(聖書)を信じる生活のための苦しみという意味です(ヨハネ5章39節)。福音とは、主イエスの十字架と復活によって罪人の罪が赦され、新しい人に造り変えられ、神の子とされるというものですが、何よりも、「神は愛である」(1ヨハネ4章8節)ということです。先週お話ししました宣教師の先生も自分の娘が病に苦しむことがどんなに辛かったことかと思うのですが、それでも、神の愛を信じたのです。

2.神の愛はどこにあるのか
今回ケズィックコンベンションに出席させていただき教えていただいたのですけれども、ルカ10章33節から35節に、「(強盗に襲われ、着物を取られ、なぐられ、半殺しにされた方に)あるサマリヤ人が旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」(『費もし増さば、我が帰りくる時に償はん』文語訳聖書)とありますが、このデナリ二つが神の愛なのです。更に、それでも足りないようでしたら、神がそれをつぐなってくださるというのです。デナリ二つとは主イエスの十字架とご復活の愛です。神は主イエスの十字架の故にすべての罪を赦してくださるのです。更にそれでも足りないと言うのなら、神が費えを携えつぐなってくださいます。

3.神のことばに導かれよう
「わたしのために、また福音のために」(29節)と語られたその対極にあるのは自分の為、偶像のためにということではないでしょうか。主イエスは御霊に満たされても、それを自分の為に用いませんでした。サタンは聖なる力を自分の為に用いさせようと誘惑するのですが(マタイ4章3節)、主イエスは空腹でも自分の為にはその力を用いませんでした。それは、自分の為に用いようとした瞬間から聖なる霊の力から離れてしまうからです。もし、この誘惑に陥るなら神から離れて自分の力で働かなくてはなりません。自分の力で生きること、働くこともある程度はできるでしょう。しかし、この誘惑に乗ってしまうとやがて破綻してしまうのです(B・Fバックストン『バックストン著作集 第一巻 説教1 赤山講話』、いのちのことば社、2015)。私もこれまで何度も破綻してきました。しかし、主イエスはただ神にのみ依り頼んで神のご命令がなければ、何もしなかったのです。主イエスは「サタンよ、退け」と自分の力による誘惑を退け、神から離れなかったのです。そして、神のみことばだけを待たれたのです。聖なる力は自分の為でなく神の為に用いましょう。ある有名な牧師はその説教の中で「与っているデナリを精一杯用いなさい。主にすべてをささげる真心を通して、主に栄光を帰することが大切なのです。それが新しく造られた人の心であり、神はそのような人に一番良いものを与えると約束しておられる。…自分の為でなく主の為に生きていくなら、天幕住まいになっても、病気になっても、大丈夫だ。主がハンドルを握っていてくださるのであるから必ず勝利に導いてくださる。」(ジョン・ピルド『教会は祈りで建てられる』DURANNO、2008)と語ってくださっていました。私も、今日も伝道したいという願いを与えられたときに、みことばを求めました。与えられたみことばは「わたし自身が一緒に行くであろう。そして、あなたに安息を与えるであろう」(出エジプト33章14節、口語訳)でした。神から離れないで、神にハンドルを握っていただいて、神のみことばにすがり、神の御力により主に栄光を帰したいと願っております。

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