「主イエスを見上げて」(使徒の働き7章44節〜60節) ( 2.23/2016 )
「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、眠りについた。」(60節)

なぜ、宗教指導者たちが一人のクリスチャンを殺害したのか考えてみます。

1.罪を指摘されたから
ステパノはアブラハムから始めてイスラエルの歴史を振り返り、神がどのように人類にご自身を現されたかを、そして、その神にどのように答えてきたかを説明しました。これは、わざわざステパノが話さなくても宗教指導者たちにはわかりきったことでした。ところが、雲行きが怪しくなるのは、神は人が作ったものにはお住みにならない(48節)と言ったあたりからでした。指導者たちも尊敬しているダビデやソロモンも含めて断罪し、更に、律法を行ってもいない(53節)と指摘しました。真意はわかりませんが、主イエスも指導者たちを「白く塗った墓」(マタイ23章27節)と表現しています。

2.怒ってしまったから
指導者たち自身も心に沸き起こった怒りをどうしようもなくなり、ステパノに対して怒り、手を下してしまいました。現在の社会に置き換えてみますと、信仰に熱心であるゆえに怒っているのはクリスチャンで、その被害にあっているのはその家族、ということもあるかもしれません。なぜ、そのようなことが起こるのでしょうか。「いつも聖霊に逆らっている」(51節)というのが、一つのキーワードではないでしょうか。クリスチャン自身も聖霊がなければ、人を傷つける可能性があるのです。どうすれば聖霊によって歩めるのでしょうか。

3.主イエスを仰がなかったから
指導者たちのように、律法によって人が人の心を塗り替えようとするとステパノ事件のようなことになるのではないでしょうか。私たちにできることは、天に上げられた主イエスを仰ぎ、主をほめたたえることだけなのではないでしょうか。主が与えてくださる聖霊によってはじめて、怒りではなく、自分に石を投げる人々に、神からの赦しが与えられるように願う思いが与えられるのです。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」(60節)。すなわち、そのような愛は自分で律法を行って獲得できるものではなく、主イエスを主と仰いで受ける聖霊による働きなのです。偉ぶることのできる聖霊の人などいないのです。「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。…女は、女は静かにして、良く従う心をもって教えを受けなさい。」(1テモテ2章8節〜11節)知恵のある女性よりも、神に従う女性のほうが力があるのです。また、信仰が篤いと自負する男性は神に顧みられませんが、主イエスに祈る男性は神に顧みられるのです。

心や体を傷つけられるとき、神殿や律法を見つめるのでなく、主イエスを見上げ祈りましょう。

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