「神の憐れみ」(エゼキエル4章9節〜17節) ( 3.1/2016 ) |
「では、人の糞の代わりに牛の糞でやらせよう。あなたはその上で自分のパンを焼け。」(15節) エゼキエルは神の裁きをエルサレムの民に知らせる役割を受けるのですが、彼自身、裁きを行いながらも民を愛されている神の愛の体験者であったことをこの4章に見ることができます。4章から5章にかけて4つの象徴的行為によって神の裁きを告げていますが、そのうち3つが4章に記されています。 1.鉄の板(1節〜3節) 神はエゼキエルに対して、粘土板にエルサレムの町を描かせ、更にその城壁を破り攻め込もうとしているバビロン軍の塹壕(ざんごう)や陣営、そして城壁を破壊する道具などをそこに描かせ、更に攻められているエルサレムに対して神は全く干渉されないことを、鉄の板を置くことを命じられることを通して示されました。哀歌3章4節には「あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎり」と記されていますが、神が民の祈りを妨げられたとき、彼らに攻め込む者たちを防いで下さるお方(神)を彼らは失うのです。 2.拘束(4節〜8節) エゼキエルは390日と更に40日にわたって縛られた状態で横になって寝ることを通して神の痛みを示しました。これは、長い間神を裏切り続けた民の行為に苦しまれた神の御心を示していました。罪は人間にとって苦しみでありますが、それ以上に、神にとっては人間の苦しみとは比べることのできないほどの痛みなのです。エゼキエルは愛している者たちに裏切られた神の痛みがどんなにきびしいものであったかを民に現したのです。「わたしから離れる姦淫の心と偶像を慕う彼らの姦淫の目」(6章9節)が神の心を引き裂き続けていたのです。 3.飢饉(9節〜17節) エルサレムは飢饉に苦しむことになることをエゼキエルは食物と水の制限をし、それを見せることによって示しました。更に神は、その調理のために人間の排せつ物を用いるように命じられるのです。しかし、エゼキエルは神のその御命令に対して(私は自分の身を汚したことがありません。ご容赦ください)と願うのです。神はその願いを聞き入れて下さり、神はその象徴行為に用いる燃料を牛の排せつ物に変えてくださいました。 神の裁きの目的は人間との正しい関係の回復です。人間をいたぶるのが裁きの目的ではありません。神は悔い改めて神に立ち返るようにと願っていてくださるのです。元から神が本気で怒り裁こうとしているのではなく、わたくしたちの不貞を正して、神の御前に真実な歩みを始めるように願っていてくださるのです。神はわたくしたちの帰りを待ちわびていてくださるのです(ルカ15章20節)。神の御心を裂くような行為を止め、神をお喜ばせする生活に改めるなら、神との関係はどんなに素晴らしいものになるでしょうか。エゼキエルは裁きのためのつらい象徴行為を命じられていますが、わたくしたちは、今日、悔い改めて神に立ち返り、神がどんなにわたくしたちを憐れんでくださったかをお証ししましょう。「主があなたに、どんな大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(マルコ5章19節) 神の裁きは象徴で終わったのではなく、主イエスにおいて実現しました。ある学者は、「『世界の真の悪はイエスの生と死と復活において存在論的に立ち向かわれ、癒された』のではないかという問いを出すガントンは、キリストが我々の『身代わり』であるということに意味があるに違いないと主張する。キリストは我々に代わって、我々自身では出来ないことをしたのである。」と解説してくれています。(神が主イエスを裁かれたのなら)神は戦いを止められたのです。エルサレムの人々にとって日々続いたエゼキエルの行動と言葉が、人々にとって奇怪とも思えるメッセージを疑わなくなるための助けとなったことは、疑いようがありません。わたくしたちが人々に伝えるべき神のメッセージとは、主イエスの十字架と死と復活、すなわち愛です。今は聖霊がこの愛を証されます。ゆえに、ひたすら祈りましょう。 (参考図書;Warren W. Wiersbe “With the Word”(Nashville:Thomas Nelson Publishers1982)、A・E・マクグラス『キリスト教神学入門』(教文館、2002)558頁) |
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