「救われた迫害者」(使徒の働き9章1節〜31節) ( 4.5/2016 ) |
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節) 問題は主イエスを神としたところから始まっています。サウロはこれを神への冒涜であると考え、主イエスを信じる人々を迫害しました。すなわち、サウロも神に対して忠実であろうとした人物だったのです。しかし、その彼に転機が訪れました。復活された主が彼の前に現れ(1コリント9章1節、15章8節)、彼の名を呼ばれたのです。この出来事を通して、彼もイエスを神の子と告白し(使徒9章20節)、主イエスがキリストであると証しするようになりました(使徒9章22節)。 1.主イエスは迫害者も救ってくださる 律法に忠実(正しい生活をしている人)でも、十字架の道を歩まれた主イエスを救い主と信じることができない人を神は見捨てるのでしょうか。マルコ14章65節「ある人々は、イエスにつばきをかけ、御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ、『言い当ててみろ』などと言ったりし始めた。」というような、抵抗しない者をいたぶる仕打ちは日常あっていると思いますが、十字架の道を認めることのできないサウロを神は見捨てたのでしょうか。主イエスはサウロの名を呼んでくださいました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」(使徒9章4節)と。 2.主イエスは回心を助ける助け手を与える 主イエスがアナニヤを説得し(使徒9章13節〜15節)、サウロに悔改めの機会を与え、罪を洗い流し(使徒22章16節)、バプテスマを授けさせ、聖霊に満たし(使徒9章17節、18節)、弟子たちを用いて暗殺者たちから彼を守り(使徒9章25節、30節)、バルナバを用いて彼のために証し人とされました(使徒9章27節)。 3.示された道を歩ませてくださる(11節、16節) 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(使徒9章5節)、主イエスはご自身をサウロに現してくださいました。主イエスの復活がこのところの鍵です。サウロは26章ではアグリッパ王の前で「キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える」と語っています。また、彼は「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」(1コリント15章55節)と語っていますが、2コリント11章23節以降には、投獄、そしてむち打ちは数え切れず、死に直面したこともしばしば、三十九のむちが5度、むちで打たれたことが3度、石で打たれたことが1度(使徒14章19節)…、彼が何度も苦難に遭い、それでも、立ち上がって歩んでいたことがわかります。彼のこの力はすべて主イエスの御業でした(ガラテヤ2章20節)。「十字架につけられたキリスト」(1コリント1章23節)このお方がサウロ(パウロ)の証ししたいお方でした。彼は石が当たったことで重い障害を負って後の人生を歩んだのではないでしょうか。けれども、そんな姿で証言したのは主イエスの復活、それは私たちの光、ということでした(使徒26章23節)。迫害者に声をかけて下さった主イエスは彼に、十字架が終わりではないことを教えて下さったのです(11節)。 |
|
|