「幸せはどこに」(使徒の働き10章23節〜48節) ( 4.12/2016 )
「ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」(44節)

この10章を通して分かることは、罪の解決が必要であること(2節、22節)、そして神に用いられる器が必要であること(34節〜43節)、神の働きが必要であることを教えられます(3節〜6節、9節〜20節、44節)。
本日は社会的な地位もあり、財産も有り、隣人愛もあり、人望も、家族や友人もいるのに神を求めた百卒長コルネリオの救いについて学びましょう。

1.罪の解決が必要
わたくしたちは、幸せでない理由を上記の地位、財産、愛、人望、家族や友人の欠如を考えてしまうかもしれませんが、そのすべてを持っている百卒長にも足りないものがありました。それは罪の赦しでした。

2.聖霊の道具となる人が必要
ペテロは聖霊の命じられた通りに従いました。わたくしは、保育園児の頃、最初に嘘をつきました。それは、同時に心の底で、(救われたい)という叫びをあげた瞬間でもあったと思います。そして神と人の目から隠れたいような心を持ちながら、そして、きよい神の前に出られない状態のまま時が流れました。そして、中学一年の時、日曜日の教会学校の時間に、担当の先生から呼び出され、罪を告白し、悔い改めるように勧められました。神は生きておられ、このような方法で導き手を立てて、私の心をつくり変えてくださいました。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。…もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1章7節、9節)に、赤鉛筆で線を引くように勧められ、「絶対にこのみことばを忘れないように」とおっしゃいました。今も聖霊の道具を神は必要とされています。

3.神による赦免が必要
「イエスについては、預言者たちはみな、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが得られると証ししています」(43節)この「赦し」は(責任・借金・罰等の)免除、罪の赦免、赦し。と説明されています。裁きが免除されたのです。わたくしはこの中学一年の出来事を境に聖書を読めるようになりました。どんなにお金やプレゼントをもらっても嫌々しかたなく読んでいた聖書が、心の喜びに変えられました。神を心からほめたたえることができるようになりました。
さて、それから32年経った今、この使徒の働き10章を通して、聖霊を求めたペテロは聖霊の業を見、自分で業をなそうとしていた私は周りの方を傷つけていたことに気づかされました。神は心に願ったもので人生を満たされるのだ、ということが分かりました。自我には死んで、聖霊の道具となることを望みたいと願っています。

1回説教を聞いただけで、異邦人のコルネリオとその家族と友人たちは聖霊を受けました。幸せは、自らに教えることによるのではなく、罪からの主イエスの血による赦免、すなわち主イエスへの信仰によるのであり、人種や知識や名誉や財産ではなく聖霊なのです(46節)。

TOP