「打ち砕く神」(エゼキエル6章1節〜14節) ( 4.26/2016 )
「あなたがたのうちののがれた者たちは、とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう。それは、わたしから離れる彼らの姦淫の心と、偶像を慕う彼らの姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。」(9節)

分解
(1−7)山々への預言(破滅) 
偶像とイスラエルの民になそうとしていること、高き所を打ち壊す(3節)、刺し殺された者どもを、偶像の前に投げ倒す(4節)など、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。
(8−10)残された人々への預言(離散)
姦淫の心と姦淫の目を神は打ち砕かれる。その悪をみずからいとうようになる(9節)。
(11−14)すべての悪に対する預言(荒廃)
偶像になだめのかおりをたいた所に彼らが殺され横たわる時、また、彼らの住むところが荒廃した地となる時、彼らはわたしが主であることを知る。

このエゼキエル6章には紀元前587年から586年に起こるバビロン軍による審判が預言されていますが、その特徴は、宗教施設の破壊とその礼拝者たちの死体がその施設に散乱するという内容になっています。偶像礼拝に対する審判を通して「主を知るようになる」という言葉が何度も繰り返し出てきています。

1.本来の主を知る方法
イスラエルの民は神の偉大な救済行為によってエジプトから救い出された民でした。「わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真ん中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」(出エジプト7章5節)と約束され、出エジプト14章でイエスラエルはエジプトの軍勢から救われました。そこには、4節と18節に「エジプトびとにわたしが主であることを知らせる」とあります。すなわち、適切な礼拝と神の偉大な救済行為によって神を知ることを喜ぶというのが聖書のメッセージでした。

2.救済から審判へ(1節〜7節)
しかし、神を知ることを喜ぶことができず、審判を通してしか知ることができないと非難されているのです。(出エジプト3章13節〜22節、20章2節)。同様に、バビロン軍による破滅や離散や荒廃も主を知るためのものでした。

3.打ち砕く神
「とりこになって行く国々で、わたしを思い出そう」と9節にありますが、彼らが悔い改めたのは散らされていった国々においてでした。時代は下って主イエスの時代はローマ帝国に占領統治されていた時代でした。その時代において、やはり、神が打ち砕かれたのは偶像でした。神の愛が分からない、そんな人間の偶像は主イエスの十字架によって打ち砕かれ、人々の心は真の神に向けられるようになりました。偶像崇拝は主イエスの十字架によって終わったのです。

神はわたくしたちの罪のために主イエスを砕かれました。わたくしたちも、主イエスによって自分の心と儀礼的行為を砕いていただき、神に立ち返りましょう。
(参考図書 J.L.メイズ『ハーパー聖書注解』教文館:700頁)

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