「三つの忘れもの」(使徒の働き12章1節〜25節) ( 5.3/2016 )
「しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。」(16節)

1.命
神はヘロデ・アグリッパ1世(AD37〜44)が自分の政治の安定のために、ヤコブを殺害することを許しました(マタイ20章22節)。しかし、ペテロをも殺害しようとしたのですが、神はペテロを殺害することは許されませんでした。そして、神はヘロデが神のように振る舞うことを許さず、ヘロデは虫にかまれて死にました(23節)。命は神のものなのです。

2.救い
「引き出そうとしていた日の前夜」(6節)神は牢に入れられたペテロを、処刑される前夜まで放っておかれました。神の救いの時は、わたくしたちの思い通りになるのではなく、神がお決めになるのです。救いも神のものなのです。「わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ55章8節〜9節)参照。

3.祈りの答えのノック
「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(5節)「そこには大ぜいの人が集まって祈っていた」(12節)この祈りがささげられているところに神の答えのノックがありました。それは、主の御使いによって解放されたペテロによるものでした(7節〜17節)。今も神はわたくしたちの祈りに応えご自身の存在を現されています。しかし、祈りの答えだけに気を取られて、戸を開けることを忘れ、神ご自身を自分の人生にお迎えすることを忘れていることはないでしょうか。

神ご自身をお迎えするとは、神から命と救いと祈りの答えを受け取り、神を驚くべきお方として心に受け入れることです。神は戸を開けようと心の戸をたたき続けて下さっています。神の解決はドアの向こうにあります。神のみわざを見ようではありませんか。誰と交わるかで心の在り方が決まります。心を悪の巣にしてはならないのです。「ペテロはたたき続けていた。彼らが門をあけると、そこにペテロがいた。」今まで何度もペテロを見たのではないでしょうか。わたくしたちに足りないのは、御霊による恵みの支配を受け入れることではないでしょうか。
(参考図書;Warren W. Wiersbe “With the Word”(Nashville:Thomas Nelson Publishers1982))

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