「わたしの心」(マルコ1章40節〜45節) ( 5.10/2016 )
「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『わたしの心だ。きよくなれ。』」(マルコ1章41節)

自分で自分の将来を予測することが難しい時代だと思いますが、神の御心は聖書に書いてあります。「わたしを見た者は父を見たのだ」(ヨハネ14章9節)とありますので、主イエスを見てみましょう。

1.主イエスの心
主イエスの心、それは憐れみでした。「イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。」(マタイ14章14節)。もし、主イエスがここにおられ、わたくしたちのそばに立たれたら、同じように同情の心に動かされてくださるでしょう。彼は外見上元気に見えるわたくしたちの、内に抱えている破れ痛んだ心を洞察してくださいます。主イエスは肉眼では見えません。お隣の方の悲しみも悩みも見えません。しかし、主イエスはそうしたことを皆ご存じで、この地上に昔いてくださったように、この朝も、同じイエスとして、憐れみに動かされるお方として、わたくしたちと共にいて下さるのです。

2.主イエスの御業
主イエスの憐れみの御心は、病める方々を癒しました。私は主イエスがここでも多くの罪に悩む魂を癒され、多くの病める心を包んで下さることを望みます。もし、あなたが神の子イエスをお受入なさるなら、主イエスがあなたに差し出してくださる憐みの御手で癒されない、傷つき、破れた心は一つもありません。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない。」(マタイ12章20節)

3.世の苦しみ
「ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために…」(マルコ1章44節)とありますので、彼はどのくらいの期間かはわかりませんが、既に病のために家族から離れた生活をしていた方であることがわかります。彼は愛する家族と共に暮らせない苦しみを抱えていました。愛しているがゆえに家族が近づくことを許せない苦しみを背負っていました。
そのような彼が主イエスに近づいたということを想像してみてください。主イエスが彼をご覧になったとき、「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた」(マルコ1章41節)とあります。主イエスは彼の病をあわれんでくださったのです。同情される心を持っておられました。そして、この苦しみの中にあった方は、主イエスのみこころを問うのです。「お心一つで、私をきよくしていただけます」(40節)と。
わたくしたちに、今朝、主イエスのみこころを尋ねる勇気があるでしょうか。わたくしたちは誰の仲間として生涯を過ごそうと考えているでしょうか。もし、主イエスの御前に出てひざまずいて信仰告白(40節)なさるなら、イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、私共にさわって「わたしの心だ。きよくなれ。」と言ってくださるのです。

主イエスの御心が世の力を砕くのです。主イエスの御心の故に、わたくしたちは悔い改めの場に進んで出ることができるのです。病よりもはるかにつらい、様々な問題のために、主イエスのみこころに向かって、今、悔い改めましょう。すべてが新しくなるのです(2コリント5章17節)。
(参考図書 D.L.ムーディー『救いとは何ぞや』基督教文書伝道会:1頁〜4頁)

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