「導かれる者の生活」(1コリント2章1節〜16節) ( 5.24/2016 )
「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(14節)

本日の礼拝は、召天者合同記念礼拝です。1コリント15章12節から58節を読んでみましょう。「しかし、事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」(1コリント15章51節)これが、事件の発端です。このキリストのよみがえりによって聖霊は下り、信仰の先輩たちは悪い交わりから離れ、「エペソで獣と戦った」(1コリント15章32節)とありますが、命をかけて信仰を守るようになりました。そして、クリスチャンはやがてどうなるのでしょうか。「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちは眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる」(1コリント15章51節)のです。すなわち、故人の人生は死で終わってはいません。しかし、故人の信仰生活は理解できなかったという思いも持っておられるのではないでしょうか。それは、当然のことなのです。わたくしたちが御霊を受けるまで故人の人生は理解できないのです。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからですまた、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(14節)

故人の経験されたことは存じ上げませんけれども、わたくしの場合は
1.以前はなぜ悔い改めが大切なのかを知りませんでした。しかし、今は、悔い改めの先にある光を知りました。聖書に出てくる長血の女が主イエスに触れたときに、「わたしから力が出て行くのを感じた」(ルカ8章46節)とあります。主イエスの十字架の贖いを信じて罪を告白するときに、罪の赦しを受け、心が新しくされるのですが、その度に主イエスとの交わりが深められ、神の愛を感じています。
2.自分の涙で主イエスの足を濡らし、足に着いたホコリを自分の髪の毛で拭った女性が出てきますが、彼女は自分が赦された喜びを、主イエスを愛するために用いました。その時、主イエスは「あなたの罪は赦されています」(ルカ7章48節)と言われました。わたくしも赦された喜びをもって主イエスに仕え、重ねて「あなたの罪は赦されています」と語っていただける生活を祈り求めています。
3.「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか」(1コリント2章16節)とありますが、聖書のみことばを用い、聖書のみことばにわたし自身を用いられたいと願っています。

パウロの場合は、十字架につけられたキリスト以外のものは伝えませんでした。それは、「御霊と御力の現れでした」(1コリント2章4節)と告白するためでした。「十字架につけられた方」(1コリント2章2節)とは、罪を負ってくださったキリストです。主に導かれるところとは罪を負う生活です。しかし、そこに、御力が現されているのです。長血の女のように主に触れ、主を証しするとき、十字架に耐えられるのではないでしょうか。導いてくださっている御霊とも親しくなれるのではないでしょうか。

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