「なぜ苦難があるのか」(使徒の働き14章1節〜26節) ( 6.14/2016 )
「とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」(17節)

なぜ苦難があるのでしょうか。使徒の働き14章19節から20節は、初めて聖書にふれる読者にとって難解な個所です。すなわち、足をわずらっている男性を立ち上がらせた神がその奇跡のために用いたパウロを投石に遭わせた点。そのためにパウロは「ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりととどまるように勧め、『私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない』」と伝え、また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食して祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねました。(22節〜23節)

なぜ苦難があるのでしょうか。

1.神は体のためには食物を与えてご自身を証しされたが、魂のためには喜びを満たして神であることを証明するため。(17節)

2.神以外のものに栄光を帰している方が悔い改めるため。(2節、8節、9節)
14章8節には、生まれながらに苦難を背負った男性はルステラで、たった一度、パウロとバルナバ一行に出会っただけで信仰を持ちました。一方、2節から出てきているユダヤ人たちは何度も神の業を見せてもらっていながら悔い改めることをしませんでした。私たちはすぐに悔い改めようではありませんか。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪がないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1章7節〜9節)

3.祈りをもって神に守りの御手に委ねるため(19節、22節、23節)
教会には長老たちが立てられ、パウロとバルナバの一行は断食と祈りをもって彼らをその信じていた主に委ねました。殺害の思いに満たされている人々に囲まれ、石を頭に投げつけられ倒れ伏し、人々に死んだと思われたパウロは、主にゆだねなければ守られないことを体験したのではないでしょうか。苦難があるとき、求められているのは神への祈りと賛美です。

苦難を通して悔い改める人は、もれなく、様々な偶像や自分自身への執着からきよめられ、食物を与え、心に喜びを与えてくださる神と出会うのです。神は生きておられます。「生ける神に」立ち返りましょう(15節)。礼拝されてよいのは神おひとりです。人や物などに、その栄光を移してはならないのです。私たちの魂の喜びとなれるお方は、造り主である神おひとりなのです。

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