「信仰の建て上げ」(エゼキエル7章1節〜27節) ( 6.28/2016 )
「災難の上に災難が来、うわさがうわさを生み、彼らは預言者に幻を求めるようになる。祭司は律法を失い、長老はさとしを失う。」(26節)

聖書には聖霊の存在が語られています。同様に悪しき霊の存在も証言されています。私たちの日常生活に悪しき霊がどんなに強く働いても聖霊には勝てません。それゆえに、わたくしたちは自分で戦わないで、祈ることを通して聖霊に委ねたいと思うのです。手の付けられない病は悪しき霊を慕って従う病であり、「悪しき霊」と指摘されると、侮辱されたと心を乱して聖書に対して心を閉ざしてしまう場合です。神はひとり子である主イエスを十字架につけてまで、私たちを救おうとされているのですが、罪を愛してしまっている方には、聖書のメッセージは余計なことと聞こえてしまうのです。主イエスを見つめるなら、そこには神の愛があります。悪しき霊が何と言ったとしても、主イエスの十字架と復活、そして聖霊の存在は、神の愛を証ししています。そして聖霊によって初めて救いの業がなされます。

さて、エゼキエル書7章はエルサレムの滅亡を預言していますが、ここにも聖霊による救いの業という他はない聖句があります。それは26節です。バビロン軍に包囲され、エルサレムの中に逃れている人々は飢饉と疫病で戦う気持ちすら保つことができないで、敵軍に備える人もなくなり恐怖に膝を震わせるそんな状況におちいり、更に聖所に強盗(敵軍)が入りそこを汚す状況が預言されます。聖所は信仰者の心のよりどころだったでしょう。その聖所が汚されることも現実みをおびてきたとき、人々の心は神に向けられるのですが、祭司と長老の神の御前にある真実な姿が証言されているのです(26節)。そこから読み取れるのは、神殿よりも先に信仰を求められているということです。

1.解決者は主イエス
わたくしたちの罪を負い解決してくださったお方は主イエスただおひとりです。「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」」(マタイ27章46節)。このお方に、私たちのわがままや神に従えない思いを打ち明け、ご相談し、導いていただかなければなりません。

2.祭司も長老も神のしもべに過ぎない
絶望的状況、すなわち、完全な敗戦を迎えたエルサレムの状況はお金も価値を失い、虐殺が国中に起こり、家も奪われ、苦悩が満ちます。そのとき、人々は神の言葉を求め、律法とさとしを求めるのです。しかし、祭司と長老たちの口から聞かれるのは、「自分は神にお仕えする神のしもべに過ぎない」「神が行われるとき何も言えない」(26節)という返事だというのです。

3.神は公正なお方
「王は喪に服し、君主は恐れにつつまれ、その地の民の手はわななく。わたしが彼らの行いにしたがって彼らに報い、彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(27節)どんなに厳しい問題が与えられても、祈って、主に出会う体験を続けてまいりましょう。教会は現在は借家ですが、今のうちに、主に出会う信仰を建て上げましょう。主のみことば通りになるのです。主が生きておられることを体験しましょう。
「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7章9節〜11節)何事についても、幼子(おさなご)になって、ひたすらに、主にお尋ねし訴えましょう。主からの答えをお聞きし、主をお証ししましょう。何にでも聞き従いますという信仰があると早く答えていただけます。わたくしたちは、神のしもべなのですから。

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