「泣かなくてもよい」(ルカ7章11節〜17節) ( 7.19/2016 ) |
「主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。」(13節) 新約聖書には、主イエスが死人をよみがえらせた奇跡が証言されています。わたくしたちは主イエスを信じるときに、自分も主イエスと同じような奇跡ができると考えがちですが、わたくしたちが描いた絵が実現するという意味ではありません。確かに、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。私を信じる者はわたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14章12節)と語られていますが、13節以降を読みますと「父が子によって栄光をお受けになるためです」と続いています。すなわち、悲しみの中にはわたくしたちの願いが叶えられる以上の神の御思いがあるのです。神は私たちの愛をも求めてくださっているのです。ある牧師は、自分の行動が神の栄光を汚すなら、この命を取ってくださいと祈っておられます。神の栄光とは愛です。 1.主イエスと出会った寡婦 悲しみの底に居るときに、周りの方が慰めてくれても何も受け入れられないということがあるのではないでしょうか。死という問題が人間の英知では解決できない問題だからではないでしょうか。しかし、この問題に触れて下さったのが主イエスなのです。 2.主イエスの御業 主イエスは「青年よ、あなたに言う、起きなさい」(14節)と語りかけて下さいました。 すると死人が起き上がって、ものを言い始めました。主イエスの御声には死も服従しました。しかし、主イエスは目に見えないし、現実に話しかけてくれないと思われるでしょうか。 主イエスは今も生きておられて、わたくしたちの生活に触れて下さっています。先日は、ある子どもたちが自分の心の中の陰の部分を打ち明けて(どう思う)と聞いてくれました。主イエスが生きて働いてくださっているのです。わたくしではなく、主イエスに打ち明けて下さったら問題は解決します。 わたくしたちは死が打ち破られることを知らないわけではありません。知っているのです。けれども、受け入れる勇気がないのです。しかし、主イエスには死を打ち破る力があるのです。身近な問題として死とは何でしょうか。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」(ヨハネ14章15節)このような関係が成り立っているか、それとも、壊れてしまっているかです。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節) 3.泣かなくてよい 主イエスが母親に語られた言葉を覚えて帰ってください。それは、「泣かなくてもよい」です。主イエスを愛せない理由を見つけることができるから泣かなくてもよい、というのではありません。わたくしたちが弱い者であっても、そんなわたくしたち知り、受け入れ、解決する力を持っておられる主イエスが泣かなくてよいと言ってくださるのです。彼はすべての痛み傷ついた心を持つ者の真実な友です。 悲しみや闇が当たり前なのではありません。主イエスは、あなたがありのままの姿で彼のもとに来られさえするならば、あなたがたの傷つき痛んだ心を覆い包んでくださいます。彼にはあなたがたを責める心もなく、ただ私たちが最も大切にしている棺に手を触れて、みことばを語り、光に変えて下さるのです。すなわち、懲らしめることもなく、受け入れて、愛の御胸に引き寄せ抱いてくださるのです。そして、「泣かなくてもよい」安心しなさいと言ってくださるのです。今日から私たちは主の愛の曇りのない光の中を歩むことができます。聖霊の光が、主イエスの御前に真実なわたくしたちの姿を披瀝するならば、主は手に負えない問題にまさって価値あるお方となってくださるでしょう。彼はあなたがたすべてが必要としておられる所の唯一の友でいらっしゃいます。わたしたちはキリストのような友を必要としているのではないでしょうか。私は皆さまお一人お一人が今朝この時からしてキリストをあなたがたの救い主とし、友としてお認めになられるよう切に祈ります。彼は泣かなくてもよいと語ってくださっているのです。 (参考図書 D.L.ムーディー『救いとは何ぞや』基督教文書伝道会:5頁〜7頁) |
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