「強奪された人」(ルカ10章25節〜37節) ( 7.26/2016 )
「彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった」(33節、34節)

主イエスのたとえ話の中で、エルサレムからエリコへ旅をしている人が強盗の集団に襲われました。旅人は服を奪われ殴られ、半殺しにされて放置されました。そこへ祭司が通りかかったのですが、反対側を通り過ぎて行きました。同様にレビ人も通りかかったのですが、反対側を通り過ぎて行きました。ところが、あるサマリヤ人が旅の途中にそこに来合わせ、彼に同情し、近寄って傷にオリーブ油とブドウ酒を注いで、包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱してくれました。
わたくしたちが回復するには、

1.自分の力では無理であることを認めること
「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(25節)この質問をした律法学者は、永遠のいのちのために自分には何かができると信じていました。これは、わたくしたちがどのような状況に置かれているかを語っている物語です。わたくしたちは傷つき倒れるとき、自分の力で立ち上がれると信じて努力します。しかし、わたくしたちが受けている傷は、わたくしたちが想像している以上に深く、自分で立ち上がれるようなものではないのです。ここからは祭司にも、レビ人にも不可能だったと読み取れます。しかし、旅人のところに近づいて介抱したサマリヤ人は彼に同情でき、治療できたのです。わたくしたちにもサマリヤ人が必要です。
「あなたも行って同じようにしなさい。」(37節)これは、あなたにそれができるからそのようにしてみなさいという意味ではなく、あなたも、自分が強盗に襲われたようなそんな立場にあることを認めて(本当は、傷つき倒れていることを知って)、サマリヤ人に会い彼の愛を受けなさいという意味ではないでしょうか。

2.サマリヤ人とは主イエス
わたくしたちは強盗たちに襲われた人のように、祭司やレビ人に救いを期待しているのではないでしょうか。恐らく、身近な家族や社会、そして自分自身に期待しながら生きています。ところが、傷つき続けて生きてきたのではないでしょうか。しかし、主イエスのたとえ話にはサマリヤ人が登場します。彼は「彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった」(33節、34節)とあります。サマリヤ人は同情できるお方だったのです。そして、わたくしたちにとってのサマリヤ人は主イエスです。
強盗に襲われた方はサマリヤ人によって介抱され、傷が癒されていったことでしょう。サマリヤ人のしてくれた行為は、主イエスの十字架と復活を意味しています。祭司やレビ人ができること、また、旅人自身が自己治癒力に期待して横たわっている間にできることとは全く違う同情と癒しを、主イエスは十字架と復活を通してわたくしたちにも行ってくださるのです。『罪人への愛』は主イエスの十字架と復活から流れてくるのです。主イエスの十字架と復活がわたくしたちの生活に受け入れられるときに、自分を赦し、隣人を赦し、愛し、生きる希望を受けるのです。

3.自分好みという偶像を捨てて主イエスを信じること
さて、傷つき倒れた原因は何なのでしょうか。「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。」(詩篇33篇11節)自分の目的が偶像であることに気付かず神の御思いから離れていったからではないでしょうか。すなわち、自分の好きな偶像(人生)を造ろうとしたからではないでしょうか。
しかし、あなたに同情してくださる主イエスをあなたがお受け入れになるなら、主イエスの十字架と復活は、日常生活の中に現れます。主イエスに、あなたの傷口を洗っていただき、包帯を巻いてもらい、主イエスと共に時を過ごす中で癒していただきましょう。わたくしたちは孤独なのではありません。主イエスは同情してくださっています。また、行くべき道がわからないのでもありません。主イエスがおられるからです。彼は罰するためではなく癒すために来てくださったのです。主イエスを恐れなくてよいのです。すがりましょう。
(参考図書 D.L.ムーディー『救いとは何ぞや』基督教文書伝道会:7頁〜9頁)

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