「神殿での偶像礼拝」(エゼキエル8章1節〜18節) ( 8.2/2016 )
「なんと、そこには、私がかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。」(4節)

神の栄光があるのに、見えていないのではないですか。という問いが8章から発せられています。エルサレムの神殿で奉仕している長老たちが「主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた」と(12節)神以外のものを求めてしまっていたというのです。すなわち、彼らが求めていた4つの偶像とは、

1.ねたみの偶像(5節、6節)これはおそらくバアルの柱だろうと言われていますが、祭壇の門の入口に神が最も嫌われる(出エジプト20章4節)偶像(柱)があったというのです。祭壇にささげられた犠牲を通して自分自身への神の愛を信じ自分の愛も神にささげるのではなく、その横にある自分の肉欲を礼拝していました。ローマ8章7節(新約300頁)を読みましょう。肉欲は手ごわいですが、洗礼は死のしるしです(ローマ6章4節)。

2彫像の部屋(7節〜13節)これはカナン人の宗教であった時代は洞窟の中にフレスコ画として描かれたものを礼拝していたそうです。しかし、イスラエルの70人の長老はそれを神殿に持ち込んでいました。これは、物を神としている姿への警告です。儀式や式文や、形式的な礼拝によって、神への霊的な傾倒を追い出してしまっていました。私たちにとって神は生きておられますか、と問われています。

3.タンムズを礼拝する女たち(14節、15節)バビロニアのバアルをタンムズと言います。タンムズは毎年6月に死に、晩秋によみがえると言われていました。すなわち、タンムズが死んでいる期間雨が降らず乾季となり植物の成長が止まってしまうのです。彼女たちはこのことを嘆いたようですが、このことは、性という偶像への警告です。性という偶像が心を占めるときに、潔い神は、私たちの肉体にとどまることができないのです。性の偶像に負けてはいけません。「絶対に許されません」(1コリント6章15節)とあります。

4.太陽を礼拝する男たち(16節)ある書物では、25人ばかりの人とは、24班の祭司の長と、祭司の長で25人だと注解されていました。彼らは日ごとに上る太陽を崇拝していました。これは新し物好きに対しての警告です。使徒17章21節のアテネの人々、2テモテ3章7節は痛烈なわたくしたちへの非難ではないでしょうか。聞いても悟らないというのです。

神は、悔い改めるなら、今、救いをくださるのです。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Tヨハネ4章10節)今、救い(神からの赦し)を受けようではありませんか。 そして、この真の神を礼拝しましょう。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」(詩篇103篇8節〜13節)主イエスの十字架と復活と罪の赦しと聖霊の満たしが現在の神の栄光です。神の栄光で神の宮を満たしましょう。
(参考図書;イムマヌエル綜合伝道団 「ウエスレアン聖書注解 旧約篇第4巻」(新教出版社)345頁〜346頁)

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