「イエスがキリスト」(使徒の働き18章1節〜21節) ( 8.9/2016 )
「そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。」(5節)

1.生活の変化
パウロは自らの手で働き、日々の糧を得ていました(3節、4節)。しかし、シラスとテモテがマケドニヤから下ってくるとみことばを教えることに専念しました(5節)。

2.ある一つの宣教方策
パウロがなぜ天幕づくりをやめたかはわかりませんが、ある書物には「ユダヤ人の教師たちは幼いころから手に職をつけるように養育されていて、彼らはむちゃくちゃリッチで誇り高かった」と記されていました。この18章には、「みことばを教えることに専念した」「イエスがキリストであることをユダヤ人たちにはっきりと宣言した」(5節)とありますので、パウロは安定した生活を捨て、イエスがキリストだと証ししたのだということが分かります。またパウロ自身が「苦難に遭うように定められている」(1テサロニケ3章3節、398頁)と打ち明けています。パウロは富むことがあっても、貧しくなることがあっても、イエスがキリストであると宣言したのです。彼は援助者が与えられても、与えられないことがあっても「イエスがキリストである」という確信を証ししました。

3.口きたなくののしる人々
そんな中、ユダヤ人たちはパウロに暴言を吐きました。そこで、パウロは暴言を吐く人々に対して着物を振り払って怒りを表します。ところが、続く9節、10節には、主がわざわざ幻に現れて「この町には、わたしの民がたくさんいるから」と語られたというのです。主にとっては、暴言を吐く民も「わたしの民」なのです。神に無関心で神に従うことのない民でも神に愛されている民なのでした。

しかし、本当に幸せなのは、神の愛を信じている人々であり、神の御声を聞き、イエスをキリスト(救い主)、生ける神として従って生かされている人々です。20節、21節からわかることは、パウロは人々の好意に支えられていたのではなく、神の御霊に支えられ従っていました。
わたくしたちもパウロのように神に支えられ生かされましょう。「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。」(1コリント15章10節)どんなに苦しいことがあっても「イエスがキリスト」です。必ず益に変えられますから、その時には、すべてのことを神に感謝しましょう。どんな状況に置かれてもイエスがキリストであることを賛美したいのです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8章28節)

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